2024年ヴェネチア・ビエンナーレリポート:「西洋の美術史」への勇気ある問いを投げかけたメイン展示

4月20日から開催される第60回ヴェネチア・ビエンナーレ。メイン会場の一つのアルセナーレでは、「Foreigners Everywhere(どこにでもいる外国人)」というテーマのもとに「ファインアート」の文脈とは異なる作品が多数展示されており、西洋主導で構築された美術史に疑義を呈しているように写った。US版ARTnewsのライターがリポートする。

ヴェネチア・ビエンナーレの会場の一つ、中央パビリオン(ジャルディーニ)にはブラジルのアートコレクティブMAHKUが装飾を施している。Photo: Lucas Blalock

文化の象徴と不透明性は、芸術家たちが近年になって取り組んでいる二つの主なテーマだ。今年のホイットニー・ビエンナーレでは、こうした文脈を複雑にし穏健なアプローチをとったことで表立つことはなかった。一方のヴェネチア・ビエンナーレでは、この繊細なテーマを題材としていることがはっきりと見て取れる。

「Foreigners Everywhere(どこにでもいる外国人)」と題されたヴェネチア・ビエンナーレのテーマを他の言語に置き換えると、文化的に特異な要素は確実に抜け落ちてしまう。とはいえ、特定の国や文化が取り上げられること、そしてそれが認識されることは、よいこととして扱われる。キュレーターのなかには、精神病院に入院していたアロイーズ・コルバスや、フランスの人類学者、アンドレ・タニキと共同制作したヤノマミ族のシャーマンによるドローイングを取り上げることをためらう人もいただろう。

いずれの作品も興味深いものであることには違いない。だが、こうしたアーティストによる作品が展示されることで、倫理に関する疑問が投じられる。その疑問とは、アートの世界にこれらの作品が取り込まれることで、最も恩恵を得るのは誰なのだろうか、というものだ。それは制作者である可能性もあれば、その子孫、あるいはコミュニティのためになるかもしれない。もしくは、アートディーラーや多様な文化を体験したいリベラルたちの肥やしとなる可能性もある。

こうした疑問に対する答えを見つけることは難しく、どうあがいても解決策を見つけられないことだってある。だが、第60回ヴェネチア・ビエンナーレの総合ディレクターを務めるアドリアーノ・ペドロサは、恐れることなく自身の考えを主張しているのだ。

ファインアートの概念に疑義を呈す

今回の芸術祭には、20世紀の美術界とは別の文脈で活動したアーティストの作品が数多く展示されている。その多くは先住民のアーティストや独学で学んだ作家で構成されており、アルゼンチンのウィチ族の女性によって結成された織物職人の集団、シレットと共同で作品を作り上げたクラウディア・アラルコンの作品と、サンティアゴ・ヤワルカニが手がけたペインティングはその好例だ。二人が制作した作品は、サルマン・トールやエブリン・タオチェン・ワンをはじめとするホワイトキューブで精力的に展示を行う若くて現代美術を象徴する作家たちの近くで展示されている。

ペドロサの主張を裏付ける展示はいくつか用意されているが、彼の考えが最も色濃く反映されている会場が、アルセナーレ・ディ・ヴェネチアだ。そこには、繊維と絵画の境界線を曖昧にするような作品、つまり染料と糸で描かれた実験的な表現で満たされている。アルセナーレに展示されているアーティストたちは、西洋文化から逸脱した文脈や伝統、技法によって作品を制作している。また、何人かの作家は、生涯において美術館で展示を開いたり、美術館のために作品を作ったりすることはなかったという。アートの世界が地理的に多様化するにつれ、「ファインアート」という概念も拡大している。なぜなら、それは結局のところ西洋によって構築された概念なのだから。

繊維を使った表現は、ここしばらくの間で地位を獲得してきたが、ペドロサはこれ以外にも過小評価されている表現方法を多く取り上げてきた。作品のよし悪しはあるとはいえ、美学的アプローチではなくテーマで作品は統一されているので、多様な作風の作品が展示されている。なかでも、パシタ・アバドやオルガ・デ・アマラル、アンナ・ゼマーンコヴァー、スザンヌ・ウェグナーの作品は秀逸だ。

第60回ヴェネチア・ビエンナーレに展示されたアンナ・ゼマーンコヴァーの作品。Photo: Lucas Blalock

ファインアートや美術館といった領域に、少数民族の文化が浸透しなかった背景には、不均等なパワーバランスがあった。こうした歴史に対して二人の女性アーティストが思慮深く、自分の体験に基づきながら向き合っている。インクルージョンに対して懐疑的なまなざしを送り、植民地的かつ帝国主義的な重荷を背負わされた西洋文化の産物である美術館が、芸術にとって本質的によい場所なのかを問うているのだ(彼女らは、これらの要素を結びつけうまくまとめている)。

アルセナーレに入って最初に目にする作品の一つが、フリーダ・トランツォ=イェーガーによる巨大なポリプティックだ。絵を描き終わると、トランツォ=イェーガーはメキシコの伝統刺繍の知識がある親戚を雇い、彼女のキャンバスに刺繍を施すようオーダーする。ある場面では、レズビアンの乱交パーティが牧歌的な風景と重なり、その脇には緊縛で使われるようなリボンと、グロメットで編まれた未来的なマシーンが描かれている。

2021年にトランツォ=イェーガーに取材をしたところ、彼女は先住民の文化を西洋文化に差し込むためにこうした手法をとっているのだと語った。また、ヨーロッパ人によって構築され、絵画で埋め尽くされた美術館をもたない他の文化がまるで劣っているかのように扱う、白人至上主義を正当化させるためにねじ曲げられた絵画の尊さを蔑視する手段としてこうした作品を制作しており、彼女はこの行為を「記号論的な破壊行為」と呼んでいる。先住民のアーティストたちが文化遺産を絶やそうとするあらゆる要因から自身の文化を守ることに関心を寄せる背景には、正当な理由があることをトランツォ=イェーガーは認めている。とはいえ、脱植民地的な未来を想像し、理想を描くための余白を確保することが重要なのだと、彼女は主張する。

刺繍が施されているということは、このキャンバスには裏側があることを意味する。刺繍されたハートの裏の近くに彼女は「HEARTS THAT UNITE AGAINST GENOCIDE!(虐殺に反対するために団結した心)」とメッセージを残している。

アルセナーレにそびえ立つフリーダ・トランツォ=イェーガーの作品。Photo: Lucas Blalock

アルセナーレの展示を締めくくる作品の一つに、ローレン・ホールジーによるコンクリート製の柱がある。会場の外に展示された作品は、活動拠点を置くロサンゼルスにある地元企業の手作りの看板から着想を得たという。エネルギッシュで特徴的な看板をエジプトで見られるような柱に落とし込んだ本作は、ブラック・カルチャーの歴史において誇らしい作品になったと彼女は主張する。また、柱の中心には地元の友人が描かれており、記念碑のようになっている。

ホールジーは、アート界がこれまで除外されてきた文化やコミュニティを引用する方法に対して、以前から懐疑的な態度を示してきた。このことから、メトロポリタン美術館が彼女に屋上に設置する大規模なインスタレーションを依頼した際に、彼女はそれを渡していない。代わりに彼女は、それを届けようと思って制作した人々がいるコミュニティに送ったのだ。また、彼女は作品を販売したことで得た収益を、自身のコミュニティにおける食の正義(健康にいい食料を手ごろな価格で誰もが入手できるよう取り組む運動)の取り組みに充て、超富裕層との距離とアート界が近いことを利用して、富を再分配している

ホールジーは、たとえメトロポリタン美術館にそうした意図がなかったとしても、自分の文化の一部が征服された証として所有されることを望まなかったのだ。(翻訳:編集部)

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