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アート市場はシンガポールの時代が来る!? 香港脱出の富裕層を取り込み拡大中

シンガポール政府は90年代後半から、世界のアート市場でトップの一角を占めるという大きな野望を抱いてきた。途中、紆余曲折もあったが、香港の優位性が失われつつある今、シンガポールはアジア地域の主要プレーヤーの地位を固めつつある。その最前線で起きている変化を取材した。

シンガポール、マリーナ・ベイの高層ビル群 Photo: Suhaimi Abdullah/NurPhoto via Getty Images

世界有数の国際金融・貿易のハブとして、しのぎを削ってきたシンガポールと香港。2つの都市は、アートの分野でもライバル関係にあった。しかし今、その力関係が変化している。要因の1つは、コロナ関連の規制緩和によるシンガポールへの移住加速だ。

2022年に入り、数千にのぼる世帯や中小企業が香港を離れたが、その多くがシンガポールに移住したと言われる。また、ロレアルやLVMH、ティンバーランド、ノースフェイスを所有するVFコーポレーションなどのグローバル企業が、主要拠点をシンガポールに移転。金融業界も、過去2年間にわたる香港のゼロコロナ政策によるビジネスの縮小を補うため、スタッフをシンガポールに移している

中国本土の支配が強まる中、香港は国際的なビジネスにおける競争力を失いつつあると認識されるようになった。さらに、現在も続く厳しい渡航制限のため、貿易拠点としてもシンガポールとの差が開いている。一方、中国系を中心に、マレー系、インド系、欧州の白人とアジア人両方にルーツを持つユーラシアンと呼ばれる人々などで構成される多民族社会のシンガポールでは、裕福なインドネシア系住民が近年増加しているのに加え、コロナ禍発生後は中国人富裕層の流入が目立つ。

こうしたアジアでの変化に、世界の有力なアート関係者が注目している。中でも、ソウルには欧米の大手ギャラリーが進出を始めており、9月にはフリーズ・ソウルが初開催される予定だ。東京でも、今後数年で複数のアートフェアの新設が予定されている。

香港に代わってシンガポールが台頭する気配は、コロナ禍以前からあった。とはいえ、その道のりは平坦だったとは言えない。2019年1月にシンガポール最大のアートフェア、アートステージが予定されていたが、財政難のため直前になってキャンセル。同年11月には国際アートフェア、アートSGが初開催される計画があったものの、これも延期された。アート・バーゼルなどの大規模フェアを運営するコングロマリット、MCHグループは、アートSGの新設で業務拡大を計画していたが、フェア開催の発表からわずか数カ月後に株主を降りている。

アートSGは再編を迫られ、さらにコロナ禍が追い討ちとなり、初開催が4回延期されるという憂き目に遭ったが、この6月、ついに2023年1月の出展者リストが確定した。MCHグループが今年1月にアートSGの15%の株を買い戻し、アート・バーゼルが初めて地元のブティック・アートフェア、S.E.Aフォーカスと提携したのも、大きな潮目の変化を感じさせる。さらに、サザビーズがシンガポールで15年ぶりとなるライブオークションを、8月に開催すると発表している。

アートSGの共同設立者、マグナス・レンフリューは、「グローバル企業が、アジア進出の拠点にシンガポールを選ぶことが多くなっている。この動きは特にテクノロジーの分野で顕著で、欧米の大手企業だけでなく、多くの大手中国企業が国外拠点としてシンガポールを選んでいます」とARTnewsに語った。

アートSGが開催されるマリーナ・ベイ・サンズ・エクスポ&コンベンション・センター Courtesy MCH Group

中国人アートディーラーのリウ・インメイは、2021年にタンジョン・パガー・ディストリパークのアート地区に39+アートスペースというギャラリーをオープン。ここは港湾地区にある倉庫街で、最近活気を取り戻したエリアだ。

リン・ケーやチャン・ユンヤオといった中国人アーティストを扱うリウも、中国や香港からシンガポールに顧客が移っていると言う。「最近、本格的なアートコレクターがシンガポールに移ってきていますし、長期的には、所有するコレクションとともにシンガポールへ移住しようと考えているコレクターも何人かいます。シンガポールのアートシーンとマーケットの成長にとって明るい兆しですね」

また、「シンガポールはビジネスインフラが高度に発達しています。子どもの教育にも良い環境が整っていて、交通のハブとしても利便性が高い。つまり、アートマーケットのポテンシャルを掘り起こそうとする人たちにとって利点がたくさんあります。2023年1月のアートSGという大規模フェアの開催に向け、この勢いが増すのは間違いないでしょう」と語った。

ただ、シンガポールではパトロンによるアート支援の水準が欧米や韓国と比較して低いため、富裕層やアートコレクターが流入しても、すぐにアートの売れ行き拡大にはつながらないとの見方もある。シンガポールの国立アートカウンシルの報告書「SGアート計画(Our SG Arts Plan)」(2018年~22年)によると、国内のアート市場はまだ草創期にあり、世界のアート輸出入全体に占めるシェアは1%にとどまっているという。

しかし、超富裕層の財産を管理するファミリーオフィスの増加で、状況が変わる兆しも見られる。アジアの富裕層資産運用ビジネスの中心地として、シンガポールの存在感が急速に拡大しているのだ。シンガポールでのファミリーオフィス設立意向は過去1年で倍増し、その数は今後も増加すると予想されている。実際、ファミリーオフィスの新設数は、2018年の27件から21年には453件にまで上昇した。

シンガポールのアートコンサルタント、ニン・チョンは、投資銀行に勤めていたアートコレクターの父、チョン・フアイセンとともに、ファミリー・オフィス・フォー・アート(FOFA)を6月に立ち上げた。設立以来、FOFAにはプライベートバンクやその顧客からの問い合わせが相次いでいる。たとえば、美術品の購入や投資に関する経験談を聞きたい、アートへの情熱を生かした新しいビジネスのアイデアが欲しい、コレクションを後世に残すにはどうしたらいいか、といった内容だ。

ニン・チョンによると、アジアのシリコンバレーと呼ばれるシンガポールでは、数多くのテック系起業家が新しい事業を立ち上げ、幅広い世代のファミリービジネス(同族会社)経営者がこの国を拠点に活動しているという。そして、「FOFAを設立したのは、アートコレクションに関するさまざまなニーズに対応できるコンシェルジュ的なサービスに、潜在的な需要があると考えたから」と説明した。

また、長年シンガポールのアートを支えてきたパトロンに、高級時計専門店アワーグラスの幹部、マイケル・テイがいる。テイは、ファミリーオフィスは「(アートの支援に)非常に重要な役割を果たせる。直接的な慈善事業とは別に、公共政策を通じて貢献を形にしていくことも可能だ」と話す。

見込み客に対してBOGO(Buy One, Give One:1点の購入につき1点の寄付をする)契約を求めるギャラリーや、現代アート作品を美術館に遺贈する意向のコレクターが増えていることから、シンガポールのアートコレクションが充実し、世界のアート界で存在感を示せる日も近いというのがテイの見方だ。

「私の望みは、シンガポール政府が国内や東南アジアだけでなく、国際的なアートやアーティストも後押しするような公共コレクション政策を実施するようになること。もちろん、東南アジアのアートの重要性を認識しているし、シンガポールの美術館は意義のある収集を行っているが、現状では世界の現代アート市場は必ずしも東南アジアに関心を示していない」

テイは、アートSGの開催は世界の現代アート界が東南アジアのコレクターの活力に目を向ける良い機会になるとし、「これまで北東アジアの国々の影に隠れていたが、シンガポールの成長の機は熟したと言える」と付け加えた。

こうして、アジアの他の地域からシンガポールに個人や企業が流入することで、国内外のアート市場の格差を埋めることができるというのが一般的な見方だ。しかし、シンガポールのようなハブ国家の特性として、人や資金の移動は地元にそれほど恩恵をもたらさない可能性もある。

シンガポールのキュレーターで、シンガポール・アート・ギャラリー協会の副会長でもあるカイルディン・ホリは、こう強調する。「シンガポールが、アート分野でインパクトのある変化を実現するためには、強い熱意を持つ地元企業や、長期的な文化の発展に向けて純粋な情熱を注ぎ、多様な視点を受け入れられる先見性のある成熟した個人からの直接的な投資が必要です」(翻訳:清水玲奈)

※本記事は、米国版ARTnewsに2022年7月28日に掲載されました。元記事はこちら

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