ヌードの問題──リンダ・ノックリン著「なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか」Vol.2【アートで祝う国際女性デー】

US版ARTnewsの1971年1月号に掲載されたリンダ・ノックリンによる論考「なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか」を、国際女性デー企画として4回にわたり紹介する。Vol.1:議論の前提をなす仮説に続く第二回は、「ヌードの問題」について考察する。

ジャン=レオン・ジェローム《アレオパゴス会議のフリュネ》(1861)ハンブルク美術館蔵 Photo: Wikimedia Commons

ここまできて、私たちはより合理的な観点からこの問いに向き合えるようになった。なぜなら、偉大な女性芸術家がいなかった理由はおそらく、個人の才能やその欠如ではなく、女性が置かれた社会制度の性質、そしてそれが各々の階級や集団に対して何を禁じ、何を奨励しているかにあると推察できるようになったからだ。

まずは、ごくシンプルで重要な問題を分析することから議論を始めたい。それは、ルネサンス期から19世紀末になるまで、芸術家志望の女性はヌードモデルを使えなかったということだ。この時代、ヌードデッサンを繰り返し行って技術を磨くことは、すべての芸術家の卵にとって必須とされていた。それは、壮麗さをアピールしたい絵画、特に最も格上のジャンルとされていた歴史画に取り組むには欠かせない訓練だった。19世紀において伝統的な絵画の支持者たちは、服を着た人物が描かれた絵画で偉大なものは存在しないと主張していたほどだ。なぜなら、衣服の存在が、偉大な芸術に欠かせない要素である「時間的普遍性」と「古典的な理想」の両方を、必然的に壊してしまうからだ。

16世紀末から17世紀初頭にかけての設立当初から、芸術アカデミーにおける訓練の主軸がヌードデッサンだったのは言うまでもない。アカデミーでは男性モデルを使うのが一般的で、これとは別に画家とその弟子たちがアトリエに集まり、ヌードモデルの写生をすることもよくあった。ちなみに、個人のアトリエや私立の美術学校では女性モデルが広く使われていたが、19世紀半ば頃までほとんどすべての公立の美術学校では女性のヌードは禁止されていた。これについて、ペヴスナーは「にわかには信じられない」と述べている(原注・出典10)。残念ながら、これとは逆に「さもありなん」と言えるのが、女性のアーティストの卵たちは、男性、女性関係なく、どんなヌードモデルも写生することが許されなかったということだ。ロンドンのロイヤル・アカデミーでは、1893年まで女子学生(lady students)はヌードを写生できず、認められた後も、モデルは「部分的に覆われ」なければならなかった(原注・出典11)。

美術史を振り返ると、写生風景を描いた絵がたくさん見つかる。ざっと紹介すると、次のようなものがある。レンブラントのアトリエで女性ヌードモデルを囲む男性画家たちを描いた絵。18世紀のハーグとウィーンのアカデミーで男性ヌードを描く男子学生たちの絵。19世紀初頭のジャン=アントワーヌ・ウードンのアトリエで、座っている男性ヌードモデルを写生する男性たちを描いたバイリーの魅力的な絵。1814年のサロンに出品されたレオン=マチュー・コシュローの《コレージュ・デ・カトル・ナシオンにおけるダヴィッドのアトリエの情景》。この絵の中では、若い男たちが熱心に男性ヌードを写生しており、モデルの台座の前に脱ぎ捨てられた靴が几帳面に描き込まれている。

その後のスーラの時代、さらに20世紀に至るまで、画家たちが若い頃にヌードモデルを詳細かつ丹念に描いた習作が数多く残っている。このことからも、才能ある初学者が知識を身につけ技術を磨くのに、この訓練が非常に重要だったことがわかる。芸術アカデミーの教育プログラムは通常、次のように進められていた。まずはドローイングや版画の模写から始め、次に有名彫刻を複製した石膏像のデッサン、それから人間のモデルのデッサンへと進む。この最終段階の訓練を受けられないということは、事実上大作を生み出す可能性を与えられていないに等しい。よほど天才的な女性でない限り、それを諦めるか、または当時画家を志した女性のほとんどがそうしたように、肖像画、風俗画、風景画、静物画といった「マイナー」な分野に進むしかない。言ってみれば、医学部の学生が裸の人体を解剖したり診たりする機会を与えられないようなものだ。


ヨハン・ゾファニーが1772年に描いたロイヤル・アカデミーの写生クラスの絵。アンゲリカ・カウフマンを除いてアカデミーの主要な会員たちが全員揃っている。礼儀上の理由から、ヌードモデルがいる教室に入れないカウフマンの代りに彼女の肖像画が掛けられている。Photo: Wikimedia Commons

私の知る限り、ヌードモデルの写生風景を描いた絵で、モデル以外の女性が登場するものは存在しない。この事実は、適切とされる振る舞いのルールに関して、興味深い視点を与えてくれる。つまり、(当然ながら、立場の低い)女性が自分の裸を見られる対象・モノとして男性の集団に差し出すのは良いが、女性が男性、あるいは同性である女性の裸をモノとして分析・記録するのは禁止されていたという点だ。

着衣の女性が裸の男性と同席するタブーを回避しようとした、興味深い絵がある。ヨハン・ゾファニーが1772年に描いたこの絵の中では、2人の男性ヌードモデルがいる教室に、ロンドンのロイヤル・アカデミーの主要な会員たちが1人をのぞいて勢揃いしている。そこにいないのは、唯一の女性会員で著名画家のアンゲリカ・カウフマンで、礼儀作法上の理由から、本人の代わりに彼女の肖像画が壁に掛けられているのだ。

その少し前に描かれた、ポーランド人画家ダニエル・ホドヴィエツキの《Ladies in the Studio》という絵には、女性たちが地味な服を着た同性を写生している様子が描かれている。フランス革命後の比較的自由な時代に石版画家のマルレが制作したリトグラフでは、男性モデルを写生する学生たちの中に女性が数人交じっているが、モデルは慎み深くも古典的な高貴さとは程遠い水着らしきものを身につけている。それでも当時、女性がこうした場に参加することは大胆なこととされ、彼女たちは白い目で見られたに違いない。だが、こうした自由な雰囲気も長くは続かなかったようだ。1865年頃のイギリスのアトリエの様子を伝える彩色された立体写真では、髭を生やした立ち姿の男性モデルが片方の肩と腕以外はほとんど肌が露出しないよう体を布で覆っている。それでも彼は礼儀正しく、ペチコートを着た若い画学生たちから目をそらせている。

しかし、どうやらペンシルベニア美術アカデミーの彫塑クラスの女性たちは、こんなささやかな機会さえ与えられなかったらしい。1885年頃に撮影されたトマス・エイキンズの写真には、学生たちが人間でなく牛(雄牛か雌牛か、写真では下腹部がよく見えないのでわからない)をモデルに、粘土で塑像を作っている様子が写っている。脚をさらすことがはしたないこととされ、ピアノの脚でさえカバーで覆っていたこの時代、裸の牛を使うことすら大胆なことだったのかもしれないが。ちなみに、アトリエに牛を持ち込んだのはクールベが最初で、1860年代に彼が運営していた(長続きはしなかった)絵画教室で、雄牛を写生のモデルに使ったという逸話がある。

男性に交じって、(女性の)ヌードモデルを自由に写生する女子学生の姿が出てくるのは、19世紀末になってからのことだ。それは、ロシアの画家イリヤ・レーピンのアトリエや、彼の仲間内での比較的自由で開放的な雰囲気の中で行われていた。ただし、こうした記録にしても、女性画家の自宅で催された私的な写生会の写真だったり、布で肌を覆ったモデルの写真だったり、あるいは、想像上のアトリエ風景であることに留意すべきだ。最後の例は、レーピンに師事した男女2人ずつの画家たちが共同で描いた集団肖像画で、絵の中にはこの著名な写実主義者の弟子だった画家たちが全員集合している。

女性芸術家はコンクールに参加できなかった

ヌードモデルが使えるかどうかという問題を、ここまで詳細に論じてきたのには理由がある。自動的かつ制度的に維持されてきた女性差別の一例であるこの問題に焦点を当てることで、女性差別がどれほど広範にわたり、どのような結果をもたらすかということを示すためだ。そしてまた、偉大な芸術家になるため、というより単に一人前の職業画家になるために長い間不可欠とされていた訓練の1つであるヌードの写生を例に挙げて、才能の開花は個人ではなく制度に大きく依存することを示すためだ。

これ以外にも、さまざまなことに光を当てることができる。たとえば、徒弟制度もそうだし、特にフランスでは成功へのほとんど唯一の道だった芸術アカデミーの教育制度もそうだ。芸術アカデミーには、段階的な進級とコンクールのシステムがあり、最も栄誉あるローマ賞を受賞した学生には、ローマに留学して現地のフランス・アカデミーで学ぶ資格が与えられた。当然、これは女性にとっては考えられないことだった。コンクールに女性が参加できるようになったのは19世紀末のことだが、その頃にはアカデミーの重要性はすっかり失われていた。19世紀のフランスは、当時おそらくほかのどの国よりも女性芸術家の割合は多かったが、とはいえサロンに出品した芸術家の総数に占める女性の割合からすると、「女性はプロの画家としては認められていなかった」(原注・出典12)ことは明らかだ。

19 世紀半ばには、女性画家の数は男性画家の3分の1程度だった。状況を考えるとかなり良い数字のように思えるが、内実を知るとそうではないことがわかる。このうち、芸術的成功への大きな足掛かりとなるエコール・デ・ボザールに通った者はおらず、公式に仕事(下働きのような仕事も含む)を受注した経験や、専用の仕事場を持っていた者はわずか7パーセント、サロンで何らかの受賞経験のある者は7パーセント、レジオンドヌール勲章を授与された者は皆無だった(原注・出典13)。何の支援や励ましもなく、教育の機会や設備も、承認や報酬も得られない中で、一定の割合の女性が辛抱強く芸術の道を志したことは、ほとんど信じがたいことだ。

こうして振り返ってみると、表象芸術に比べ文学の分野では、女性が男性とはるかに対等に競い合い、革新的な存在になることさえできた理由が見えてくる。伝統的に、美術作品を作れるようになるには、家庭外の教育機関で、段階を踏みながらさまざまなテクニックやスキルを習得し、図像やモチーフで構成される視覚言語を身につける必要があった。しかし、詩人や小説家の場合はそうではない。誰でも、たとえ女性であっても、言葉を覚える必要があったし、読み書きを習って個人的な体験を自分一人の部屋で書き留めることができたのだ。

もちろん、男性であれ女性であれ、優れた、あるいは偉大な文学作品を生み出すために、作家が向き合わねばならない困難や複雑な問題を単純化しすぎていることは認める。だが、それでもエミリー・ブロンテやエミリー・ディキンソンのような大作家が存在し得た理由や、少なくともごく最近まで視覚芸術分野において彼女たちと同等の存在がいなかった理由について考える手がかりにはなるだろう。

もちろん私たちはまだ、大芸術家になるために必須となる周辺的な要件には踏み込んでいない。これをクリアするための機会は、ほとんどの場合、女性には心理的にも社会的にも制限されていたのだ。仮に女性が必要な技術を身につけ、素晴らしい画家になったとしよう。しかし、それだけでは彼女は偉大な芸術家にはなれない。ルネサンス以降、偉大な芸術家は、芸術アカデミーの活動に参加するだけでなく、人文主義的なサークルのメンバーと親しく交わり、さまざまな専門分野の知識人と議論を交わしたり、パトロンたちの知己を得たりしていた。こうして築いた人脈のおかげで各地を自由に旅することもできたし、政治的に立ち回ったり策略を企てたりすることもできた。

このほかにも、工房運営に必要な組織のトップとしての能力についてもまだ触れていない。ルーベンスのように、大規模な絵画工房を率いるには、確固たる自信と社会的な経験・知識、そしてその結果自然と滲み出る貫禄と統率力が欠かせない。受注した絵画を滞りなく制作する上でも、大勢の弟子や助手を管理・指導する上でも、こうした力が偉大な親方には必須だったのだ。(翻訳:野澤朋代)

Vol.1:リンダ・ノックリン著「なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか?」──フェミニスト美術史家が突きつける問い

初出:US版ARTnews1971年1月号22頁

原注・出典
10.Nikolaus Pevsnerの前掲書(231頁)によると、写生のクラスで女性のヌードモデルが導入されたのは、ベルリンでは1875年、ストックホルムでは1839年、ナポリでは1870年、ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートでは、1875年以降のことだった。また、トマス・エイキンズの木炭画を見る限り、ペンシルベニア美術アカデミーの女性モデルたちは、少なくとも1866年頃までは顔を隠すため仮面をつけていたようだ。

11.Nikolaus Pevsner、前掲書231頁

12.Harrison C. WhiteとCynthia A. White、前掲書51頁

13.同上、表5

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