ピカソをジェンダー視点で捉え直す「パブロ問題」展をレビュー。ハンナ・ギャズビーの意図は伝わったのか?

ピカソ没後50年の今年は、世界各国でピカソ展が目白押し。そのほとんどがこの偉大な芸術家を称賛する中で、ニューヨークブルックリン美術館ではコメディアンのハンナ・ギャズビーの企画による一味変わった展覧会が開幕した。しかし、その内容には首を捻るところも多いようだ。

パブロ・ピカソとハンナ・ギャズビー。Photo: Picasso: ©2023 Estate of Pablo Picasso/Artists Rights Society (ARS), New York; Gadsby: Photo Alan Moyle

フェミニズムの視点からピカソを捉えた企画展

この50年というもの、パブロ・ピカソの名声は大きく揺らいでいる。かつて同じキュビスムの画家ジョルジュ・ブラックが「天才」と言い、伝記作家のジョン・リチャードソンからは「神童」と呼ばれたピカソを、美術評論家のロバート・ヒューズは現代美術史論『The Shock of the New: The Hundred-Year History of Modern Art』(1991)で「歩く陰嚢」と酷評。また、10年におよぶピカソとの波乱万丈な恋愛関係に終止符を打ったアーティストのフランソワーズ・ジローは、1964年に自らの回顧録で彼を「エゴイスト」と言い切っている(この回顧録は2019年に再版された)。

美術史家のリンダ・ノックリンは、1971年のUS版ARTnewsへの寄稿記事で「ピカソが女の子に生まれていたら天才と呼ばれただろうか」と問いかけ、注目を集めた。とはいえ、ノックリンの名は一般にはあまり知られていない。今、ピカソ批判で有名な人物といえば、コメディアンのハンナ・ギャズビーだろう。2018年にNetflix(ネットフリックス)のコメディスペシャル「ハンナ・ギャズビーのナネット」でピカソを取り上げ、さまざまな視点から対象物を捉える絵画運動、キュビスムの発案に貢献したことを「自分のペニスに万華鏡の筒を付けただけ」と言い放った。

そのギャズビーが、ニューヨークブルックリン美術館で6月2日に開幕した企画展、「It’s Pablo-matic: Picasso According to Hannah Gadsby(パブロ問題:ハンナ・ギャズビーによるピカソ)」(*1)のオーディオガイドでさらに辛辣な批判を繰り広げている。


*1 原題の「Pablo-matic」は、パブロという名前と英語の「problematic(問題のある)」の造語。

ギャズビーは、ピカソが「男性の権威を振りかざし、圧倒的な女性差別と虐待を犯した家庭内独裁者」であり、「アート界で過大評価された地位を与えられている」と主張。また、これを強調するため、おそらくはロバート・ヒューズへのオマージュとして、彼はピカソに「PP」というニックネームをつけた。このささやかなダジャレに気づいた人も多いだろう(*2)。


*2 パブロ・ピカソのイニシャル「PP」と同じ発音の「pee-pee(ピーピー)」は、英語の幼児語で「おちんちん」あるいは「おしっこ」の意。

ギャズビーはこの展覧会の企画について「ピカソは私のミューズではない」と語っている。「残念だけれど」とも。確かにそうだろう。

ギャズビーがブルックリン美術館のキュレーター、キャサリン・モリスとリサ・スモールとともに企画した「パブロ問題」展は、ピカソのミソジニー(女性嫌悪)、悪行、植民地主義的衝動を解明しようという新しいタイプの研究を目指すものだという。3人はこの目的を達成する手段として、フェミニズムアートの代表作家による最近の作品を織り交ぜた展示をしている。ギャズビーによれば、「私たちの集団的な自己理解から抜け落ちている声や視点を掘り起こし、それを擁護する」ための気高い意思表示なのだ。

ディンガ・マキャノン《Morning After》(1973)。Photo: ©Dindga McCannon/Photo David Lusenhop/Brooklyn Museum

展示作品の選択に美術史の観点が抜け落ちている

この展覧会の問題点は、ピカソ没後50年を記念する他のピカソ展とは一線を画す修正主義的思考にあるのではない。それは、2023年にピカソの作品全般を論じるにはむしろ必要な観点だ。しかし、致命的なことに、美術史の観点がキュレーションから完全に抜け落ちている。ギャズビーはかつて美術史を専攻・研究したものの、家父長的なルーツのある学問であることに気づき、不満を抱いてそこから距離を置いた。

最初の展示室に入る前から、「パブロ問題」展の問題は始まっている。美術館の1階に設営された展覧会の派手な赤い看板の上には、セシリー・ブラウンによる幅8メートルを超える絵画《Triumph of the Vanities II》(2018)がある。燃える火のような背景に、色彩が絡み合うような筆致で描かれているこの絵は、豊穣を祝うバッカス祭を描いたロココ絵画や、ウジェーヌ・ドラクロワの激しい色使いに着想を得ている。ピカソに敬愛の念を表明しているブラウンだが、この作品に関してはピカソとはほとんど無関係なのだ。

また、熟した桃が入ったボウルのそばで寝そべるジョセフィン・ベーカーを描いたフェイス・リンゴールドの版画《Jo Baker's Birthday》(1995)も展示されているが、これはピカソではなく、《マグノリアのあるオダリスク》(1923)をはじめとするアンリ・マティスの絵画を連想させるものだ。リンゴールドの作品を取り上げるなら、より直接的にピカソをテーマとしたキルト作品、《Picasso’s Studio》(1991)のほうがふさわしいだろう。同様に、ニーナ・シャネル・アブニーの《Forbidden Fruit》(2009)には、ピクニックをする人々の周囲にスイカが転がり、ときにイスがわりに使っている様子が描かれているが、これもピカソではなく、明らかにエドゥアール・マネの《草上の昼食》(1862-63)を想起させる構図だ。

ピカソの作品と現代のフェミニズムアートを組み合わせた「パブロ問題」展の会場風景。中央にジョアン・センメルの絵画が見える。Photo: Alex Greenberger/ARTnews

リンゴールドとアブニーの作品に、モダニズムの限界を指摘する意図があることは間違いない。2人は白人の人物を黒人に置き換え、ヨーロッパ的な図像の中にはめ込んでいる。しかしこの展覧会は、何世紀にもわたる男性優位の西洋美術史の延長線上にあるモダニズムの規範全体を問い直すことはしない。「パブロ問題」というタイトルにあるように、ピカソという1人の男性作家を、モダンアートにおいて批評に値する唯一のアーティストであるかのように提示している。だが、これは間違いだ。

皮肉なことに、ピカソに焦点を当てた数少ない展示作品の1つはギャズビー自身が提供したもので、ピカソの《Grande Baigneuse au livre》(1937)の複製だ。大きな石のような人物が、開いた本の上に崩れ落ちるような姿勢で描かれているこの絵を、1995年頃にギャズビーは実家の地下室の壁に描いた。今それは、「クソのよう」だと悪態をつかれるものになっている。

「ピカソは、ラファエロのように描くには4年かかり、子どものように描くには一生かかると言った」と、ギャズビーは壁に掲示された解説に書いている。「もちろん、私は自分を天才と呼びたいわけではない(略)でも、ラファエロ並みにおもしろいコメディアンになるのに4年しかかからなかった」

「おもしろさ」をどう定義するかは議論の余地があるが、この企画展で、コメディの要素がキュレーションの仕掛けとして使われているのは確かだ。ギャズビーによるツイッター的用語のテキストが、展示解説の真面目な美術史的考察の上にちりばめられている。たとえば、男性の裸体彫刻を愛撫する裸婦の絵に、「伸び縮みする変なやつ」という言葉が添えられている。「ディケンズの小説に出てきそうな顔をしているのに、バーニングマン(*3)でモッシュピット(*4)に入ってしまうなんて、最悪じゃない? #MeToo」というテキストは、ミノタウロスが暗く狭い部屋のような空間に押し入る様子を描いた版画に添えられている。


*3 「バーニングマン」は、年に1度、アメリカ・ネバダ州のブラックロック砂漠に数万人の参加者が集まり、コミュニティ、アート、自己表現、自給自足をテーマに行われる野外フェスティバル。
*4 「モッシュピット」は、大規模イベントの会場で激しい身体的な動きやぶつかり合いの集団行動(モッシュ)が発生しているスポットを指す。

この展覧会で奇妙だと感じたのは、展示の大多数がピカソの作品であることだ。このこと自体に疑義を呈することはできないだろうか。なぜなら、ピカソを中心に据えたままでは、美術史の中心軸をずらすことなどできないと思うからだ。しかし、展覧会のキュレーターたちは、どうしてもピカソ作品を中心に展示したかったのかもしれない。少なくとも、すばらしい作品の数々を海外からアメリカに持ち込むことには成功している。たとえば、パリの国立ピカソ美術館から貸し出された数点の絵画などだ。

パブロ・ピカソ《影》(1953)。パリ国立ピカソ美術館から貸与された作品のうちの1点。Photo: ©2023 Estate of Pablo Picasso/Artists Rights Society (ARS), New York/Photo: Mathieu Rabeau/©RMN-Grand Palais/Art Resource, New York

女性アーティストの扱いに物足りなさが残る

そのうちの1つ、《Corrida: la mort de la femme torero》(1933)には、ぶつかり合う2頭の牛の間を転げ落ちる女性闘牛士の姿が描かれている。衝撃を受けて胸が露出している女性は場違いなエロティシズムを感じさせるが、これはこの展覧会で展示されているピカソ作品の多くに共通している点だ。この女性闘牛士が、当時ピカソと恋愛関係にあったマリー=テレーズ・ワルテルをモデルにしたものだと知ると、なお見るのがつらくなる。この絵に添えられた「PETA(*5)がピカソをキャンセルできないのなら、誰にもできないだろう」というギャズビーのテキストに共感できなくても、この絵はピカソの残酷さの表れだというキュレーターの評価には同意する。


*5  PETA:People for the Ethical Treatment of Animals(動物の倫理的扱いを求める人々の会)。世界最大規模の動物愛護団体。

この企画展がジローやワルテル、そして画家のドラ・マールやダンサーのオルガ・ホフロワなど、ピカソと恋愛関係にあった女性たちを繰り返し取り上げているのは重要なポイントだ。これらの女性たちは、以前はピカソの「ミューズ」とひとくくりにされていた。そして、美術史研究においては、いまだにこれらの女性たちについて語ることへの根強い抵抗があることを示唆している。さらに、女性アーティストたちとピカソとの関係における負の側面にも触れているが、それは強い引力を持ち続けるピカソの文脈の中で語られるのだ。

そこには誠実さの欠如が感じられる。ジローもマールも特筆に値する芸術を生み出したアーティストなのに、今回の展示では影も形も見当たらない。ピカソの作品と同列に並べて2人の作品を展示したら、有益な視点が提示できたろう。2人だけでなく、展示する価値のあるモダンアートの女性アーティストの作品は少なくない。かろうじて、ケーテ・コルヴィッツとマリア・マルティンスが取り上げられているが、2人とも驚嘆すべき作品を残しているにもかかわらず、ここでは凡庸な作品が展示されているだけだ。

カレタ・ドゥーリン《Improved Janson: A Woman on Every Page #2》(2017) Photo: ©Kaleta Doolin/Brooklyn Museum

こうした女性アーティストは、長い間、美術史の教科書に載ることはなかった。この事実に基づいて制作されたのが、カレタ・ドゥーリンの《Improved Janson: A Woman on Every Page #2》(2017)だ。H.W.ジャンソンによる有名な美術史の教科書の全ページに女性器をかたどった楕円形の穴を開けた作品で、ピカソの《アヴィニョンの娘たち》(1907)の写真は左下の角が切り落とされている。

ドゥーリンの作品は、ジャンソンの本の一部を欠落させることで、女性アーティストが何世紀にもわたって美術史から排除されていた事実を明らかにしている。それは苦痛を伴う暴力的な排除だったが、ドゥーリンはこの問題には誰もが関係していると示すことで、暴挙を正すための一歩を踏み出したのだ。ギャズビーが同じことをしてくれたら、どんなによかっただろう。

なぜ、この展覧会はここまで美術史をゆがめる企画になってしまったのだろうか。乱交やレイプ、獣姦を描いたピカソの作品が数多く展示され、解説パネルには、これらのイメージの出典が古代ローマのオウィディウスの詩やギリシャ神話などにあることが説明されている。眠っている(つまりは性行為に同意していない)裸の女性の横にミノタウロスがひざまずく様子を描くことによって、ピカソは性的暴行を美化し、それを古典芸術によって適当に正当化した。もちろん、ピカソ以前にも、ベルニーニ、ティツィアーノ、コレッジョ、プッサンなどが同じことをしている。しかし、この展覧会が攻撃の対象とするのはピカソだけだ。

パブロ・ピカソ《Faune dévoilant une dormeuse (Jupiter et Antiope, d'après Rembrandt)》(1936) Photo: ©2023 Estate of Pablo Picasso/Artists Rights Society (ARS), New York/Photo Brooklyn Museum

ピカソとの関連がない作品が多すぎる

展覧会に登場する女性アーティストの多くは、ピカソに限らず、何世紀にもわたる女性蔑視への答えを提示している。ベティ・トンプキンスの作品は、勃起したペニスが膣に入るところをクローズアップで描いた壮大なグリザイユ画(モノクロの絵画)で、ギュスターヴ・クールベの《世界の起源》を想起させる。一方、ジョアン・センメルの《Intimacy/Autonomy》 (1974)は、女性の視点から見た性交後のカップルを描いた絵画で、もう少し軽いアプローチを見せている。さらに、ガーダ・アメールは、赤い糸の細かい刺繍で広げられた女性の脚を表現した《Heather’s Dégradé》(2006)を、レイチェル・ニーボーンは、おびただしい数の手足がまるで噴水のように見える磁器の作品を展示している。しかし、これらの作品に特定の基準があるわけではない。男性の視線が全能的なものであるのは、ピカソだけに見られる問題ではないからだ。

ピカソ作品が1点もない最後の展示室で、「パブロ問題」展の曖昧さはさらに際立つ。ここには、人気番組「ワンダーウーマン」を編集し直したダラ・バーンバウムの有名ビデオ作品《Technology/Transformation: Wonder Woman》(1978-79)、地面に彫刻された抽象的な女性像を撮影したアナ・メンディエタの写真、鮮やかな色で革命家の女性を描き、実弾をカンバスに固定したディンガ・マッカノンの《Revolutionary Sister》(1971)など、すばらしい作品が並んでいる。しかし、ブルックリン美術館が所有しているということ以外、作品の間に共通点は見当たらない。

展覧会の付録資料(Bloomberg Connectsアプリ)には、最後の展示室に作品が展示されているハーモニー・ハモンドのインタビューが収録されているが、ピカソへの思いを聞かれたハモンドは「正直なところ、ピカソについてもその作品についても、特に考えていない」と答えている。

展覧会では、ピカソについて何かしらの思いを抱いているか、少なくともピカソと何らかの関係がある作品を制作しているアーティストをもっと取り上げるべきだった。とはいえ、今となっては、この展覧会のキュレーターたち、特にギャズビーにとっては荷が重すぎたようだ、としか言いようがない。オーディオガイドで彼女は、こう語っている。「人類はいろいろな問題に直面している。不安定な世の中だ。私はそれをピカソのせいにする。これはちょっとしたジョーク。でも、そうではないかも? どっちだろう」(翻訳:清水玲奈)

from ARTnews

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