ダリの世界へようこそ! 生い立ちから商業的成功、ブルトンとの決別まで、毀誉褒貶の奇才の生涯

シュルレアリスムと聞いてサルバドール・ダリ、あるいはダリの描いた溶けかけた時計の絵を思い浮かべる人は多いだろう。商業的な成功を悪びれずに追求し、シュルレアリスムの創始者、アンドレ・ブルトンから「ドルの亡者」と言われた異端児ダリの生涯と作品を見ていこう。

フルール・コウルズによる公認の伝記『The Case of Salvador Dalí』(1959)を読むサルバドール・ダリ(イギリスにて1959年5月6日撮影)。 Photo: Terry Fincher for the Daily Herald. Daily Herald Archive/SSPL/Getty Images

ダリは、その芝居がかった言動や風貌(特にワックスで整えた漫画のような口ひげ)、狂気を思わせるぐにゃぐにゃした夢幻世界の絵、そしてロブスターの甲羅で受話器を包んだ電話《ロブスター・テレフォン》(1938)などファウンドオブジェ(*1)の彫刻で知られる。彼は圧倒的な個性でシュルレアリスムの代名詞的な存在となったが、この運動の創始者であるアンドレ・ブルトンは、その成功を快く思わなかった。


*1 自然にある物や日常生活で使われる人工物をその物自体として作品に取り込むアート。

ダリの業績はその作品にとどまらず、スーパースターとしての芸術家像の先例を作ったことにある。アーティストがブランド化するという意味では、ウォーホルクーンズを先取りしていたと言えるだろう。それと同時に、そうしたセレブ的な立場の弊害を体現してもいた。やがて自分自身をキャラクターとして演じるようになった彼は、大仰な態度や、大量の商品を市場に投じることで自らの芸術の価値を薄めてしまった。さらに問題だったのは、1930年代にファシズムに親近感を示したと見なされたことだ。そのために彼は、シュルレアリスム運動を追放されている。

幼少期:「兄の生まれ変わり」という刷り込み

サルバドール・ダリ《Portrait of My Dead Brother》(1963) Photo: Collection of The Dalí Museum, St. Petersburg, Florida. Copyright © Salvador Dalí, Gala-Salvador Dalí Foundation/DACS, London 2023. Photo copyright © David Deranian, 2021

ダリは1904年に、スペイン・カタルーニャ地方の町フィゲラスで生まれた。弁護士だった父親は躾に厳しく、反カトリック的な思想の持ち主で、カタルーニャの自治を支持していた。一方、母親は芸術に憧れる息子を積極的に後押しした。

彼はサルバドールと呼ばれる2番目の子どもだった。彼が生まれる9カ月前、同じ名前の兄が3歳で亡くなっていたのだ。ダリが5歳になった時、彼は自分が兄の生まれ変わりだと両親から告げられ、そのことがダリの人生と芸術に死ぬまでつきまとった。兄の亡霊についてダリは、「生きていることを知る前に、自分は死んだと思っていた」と語っている。1963年には《Portrait of My Dead Brother》を描いているが、成長した兄の姿を想像してそれを網点で表したポップ・アート風のこの絵は、彼にとって悪魔祓いのような作品だった。

また、自分の姓がスペイン語やカタロニア語ではなく、北アフリカに由来すると知ったダリは、8世紀にイベリア半島を征服したムーア人とのつながりを自らの中に見出していた。自分はアラブの血を引いていると主張し、装飾が好きであることや日焼けで人並み以上に肌が黒くなるのはそのためだと言っていた。

教育と初期の作品:ピカソ、未来派、フロイトが糧となる

ダリは1916年にフィゲラス市立のドローイング学校に入学した。そして、定期的にパリを訪れていたカタルーニャ出身の印象派の画家、ラモン・ピチョットを通して前衛芸術を知る。ピチョットにピカソや未来派の画家たちを教えてもらったダリの作品は、写実的な傾向を保ちながらも、この2つのスタイルの影響を受けていった。

ダリに大きな打撃を与えたのは、1921年の母親の死だ。その翌年、彼は17歳でマドリードの名門美術大学、王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学した。

当初、ダリは主に風景画や肖像画を制作していたが、次第に奇妙さが前面に出てくるようになる。《ラファエロの首をした自画像》(1921年頃)では、フォーヴィスム(野獣派)の色彩とマニエリスムのような人体の歪みを融合させながら、パルミジャニーノの聖母像から抜け出したかのような、ねじれた首が特徴的な4分の3正面像の自画像を描いている。

ダリは、写真のように本物らしい絵を描くことができた。彼の絵が一般大衆に受け入れられたのに、そのスキルが関係しているのは間違いない。とはいえ、一見何の変哲もない作品も、どこか日常とはかけ離れた印象を与える。たとえば、《Girl’s Back》(1926)は、背中を向けたポーズによってモデルと見る者と間に距離が生まれ、謎めいた雰囲気を醸し出している。

おそらく、ダリが若い頃に最も大きな影響を受けたのはジークムント・フロイトだろう。学生時代、フロイトが唱えたイド(*2)の理論に没頭した彼は、フロイトの説を取り入れて、自らの恐怖、欲望、神経症を作品の中で表現した。彼はこの著名な精神分析医に会おうと何度もウィーンの自宅を訪ねたが、面会は叶わなかった。ようやく会えたのは1938年、フロイトがオーストリアに侵攻したナチスから逃れてロンドンに住んでいたときだった。


*2 フロイトが提唱した人格構造に関する概念。人間の持つ本能的衝動や欲望。

シュルレアリスムとの出会い:ミロやタンギーから刺激を受ける

サルバドール・ダリ《Apparatus and Hand》(1927) Photo: Collection of The Dalí Museum, St. Petersburg, Florida. Copyright © Salvador Dalí, Gala-Salvador Dalí Foundation/DACS, London 2023

ダリは、ブルトンが1924年に書いたシュルレアリスム宣言も読んでいた。その中でブルトンは、理性に制御されずに文章を書いたり芸術作品を作ったりするオートマティスム(自動記述)の概念を打ち出していた。ダリは1926年にブルトンのいるパリに移り住んでいるが、同じくカタルーニャ出身の先輩画家ジョアン・ミロのおかげで、そこに行く前から現地では名が知られていた。ダリは、生き物のような抽象的な形態を描くミロのスタイルに刺激され、シュルレアリスム運動の発足と同時にメンバーとなっていたミロも、ダリをブルトンやピカソだけでなく、彼自身の所属画廊に紹介している。

ダリの最初のシュルレアリスム絵画《器官と手》(1927)には、針のように細い脚が生えた幾何学的な立体物の上に、細長い逆ピラミッド状の頭が不安定に乗っている奇妙な人物のような形が描かれている。それが立っているのは不毛の平原で、上空には雲と乱気流が渦を巻き、裸体の女性の胴体、鳥の群れなど、さまざまな物体を空中に舞い上げている。どんな意味があるのかは分からないが、この光景は潜在意識の奥底から湧き出たものだとダリは語っていた。

彼はまた、他人のアイデアも素早く取り入れている。特にイヴ・タンギーの作品を熱心に吸収し、ダリの伝記作家イアン・ギブソンによると、タンギーの姪に「私は全てをあなたの叔父さんからつまみ取ったのです」と言ったという。こうしてダリの名声は、次第にタンギーや他のシュルレアリストたちを凌駕するようになっていった。そして前述のように、それがブルトンの神経を逆撫ですることになる。しかし、2人が完全に決裂するのは、それから10年近く経ってからのことだった。

ダリとルイス・ブニュエル:過激な映画作品で物議を醸す

サルバドール・ダリとルイス・ブニュエルによる映画『アンダルシアの犬』(1929)のスチール写真。Photo: FilmPublicityArchive/United Archives via Getty Images

1929年4月、ダリはスペインの映画監督ルイス・ブニュエルと、ブニュエルの母親が出資した短編映画『アンダルシアの犬』を制作(監督:ブニュエル/共同脚本:ブニュエル、ダリ)。2人は学生時代にマドリッドで出会っていた。

カミソリで女性の眼球を切り裂くという衝撃的なシーンで、この映画はたちまち評判となり、やがてその断片的な映像や、自由連想のような挑発的イメージのモンタージュで映画史に残る名作として知られるようになった。その1年後、2人が制作した『黄金時代』(同上)では、ブルジョワの性的偽善を風刺的に描いている。公衆の面前で泥にまみれながら性交するカップルが登場するこの作品は、封切られて間もなく右翼が上映中のスクリーンに爆弾を投げつける事件を引き起こした。

ダリとガラ:生涯の伴侶と出会う

ガラ・ダリ(エレーナ・イヴァーノヴナ・ジヤーコノヴァ、1930年頃に撮影) Photo: Martinie/Roger Viollet via Getty Images

1929年8月、ダリはシュルレアリスムの共同創設者であるポール・エリュアールとその妻ガラ(本名:エレーナ・イヴァーノヴナ・ジャーコノヴァ)の訪問を受けた。ダリは10歳年上のガラに魅了され、2人はすぐに関係を持った(ガラは、夫のエリュアール、ドイツ人画家マックス・エルンストと三角関係だったこともある)。

2人は後に結婚し、ガラはダリの生涯の伴侶、モデル、ミューズとなった。しかし、ガラは互いを独占しないオープンな関係を求めていた。少なくとも、自分にはそれが必要だと彼女が主張していたのは、一説によるとダリが相互的なセックスよりも自慰行為を好んでいたからかもしれない。

シュルレアリストオブジェ:フロイトのフェティシズム理論を取り入れる

サルバドール・ダリ《ロブスター・テレフォン》(1938) Photo: Collection Tate, London. Copyright © Salvador Dalí, Gala-Salvador Dalí Foundation/DACS, London 2023

それはさておき、ダリはシュルレアリスム運動に重要な貢献をしている。大勢のアーティストたちがこぞってこの運動に加わるようになると、ブルトンは彼らの多様なスタイルとイデオロギーを統合できるようなものを考えるようダリに依頼した。それに応えてダリが提案したのが、「シュルレアリストオブジェ」というアイデアだ。これはつまるところ、マルセル・デュシャンが考案したレディメイド(*3)の概念に顕著なファウンドオブジェの美学を、性的な深層心理を取り入れながらアレンジしたものだった。


*3 大量生産された既製品をオブジェとして展示するもの。

シュルレアリストオブジェは、デュシャンのように軽妙な方法で芸術と実世界、あるいはハイカルチャーとローカルチャーの境界を行き来するものではなく、抑圧された思考や感情を掘り起こすことが意図されていた。ダリのこのアイデアは、靴や身体部位に関連する物へのエロティックな執着を探求したフロイトのフェティシズム理論に基づいている。

ダリ自身が手掛けた《ロブスター・テレフォン》のようなシュルレアリストオブジェには、彼の強迫観念が物理的な形で現れている。もう1つのオブジェ作品《象徴的機能を持つシュルレアリスム的オブジェ》(1931/1973)は、赤いパンプスと牛乳の入ったグラス、角砂糖に接着された丸めた陰毛の塊、ポルノ写真、秤に似た木製の骨組みなどを組み合わせたもので、ダリはこれを自慰的な妄想のための「メカニズム」と呼んでいた。

偏執狂的・批判的方法:ダリを象徴する名作の誕生

サルバドール・ダリ《記憶の固執》(1931) Photo: Collection Museum of Modern Art, New York. Copyright © Salvador Dalí, Gala-Salvador Dalí Foundation/DACS, London 2023.

同じ時期にダリは、彼が「偏執狂的・批判的(paranoiac-critical)」と呼ぶ体系的方法を追求。パラノイア(偏執病)の患者は実際には存在しないものを知覚するという考えに基づいたこの「方法」では、絵を鑑賞者の意識の流れを試すある種のロールシャッハ・テストと捉え、その中に幻影のような図像をひそませた。ダリは、この戦略を「錯乱現象の連想と解釈の批判的かつ体系的な客観性に基づく非合理的な知識のための自発的な方法」と名付けている。

偏執狂的・批判的アプローチで制作された主要な作品には、彼の代表作である《記憶の固執》(1931)と《海辺に出現した顔と果物鉢の幻影》(1938)がある。両方とも入り江に面した海岸を背景としているが、時間の相対性をテーマとした《記憶の固執》では、太陽の熱で溶けかけたような懐中時計を描いている。ダリによると、彼のシンボルとして有名になったこのモチーフは、熟成しすぎたカマンベールチーズを見て思いついたという。一方、《海辺に出現した顔と果物鉢の幻影》は、梨を入れた脚付きの果物鉢を中心にした二重のイメージで、果物鉢の脚の部分に幽霊の顔のようなものが見える。

名声と商業的成功:派手な自己宣伝でメディアの寵児になる

ニューヨークの港に停泊したS.S.ノルマンディー号のデッキに立つサルバドール・ダリ(1936年撮影)。Photo: Bettmann Archive

金と名声の追求は芸術への裏切りだと前衛芸術家たちが考えていた時代、ダリはその両方を積極的に追い求めた。彼は悪びれることなく自己宣伝に励み、「現金に対する純粋かつ垂直的、神秘的、ゴシック的な愛」を持つことを認めていた。1929年11月にパリのグーマンス画廊で開催された彼の初個展は、批評家たちには理解されなかったが、商業的には大成功を収めた。

1934年に初めてニューヨークを訪れた際、終始メディアに取り囲まれていた彼は「狂人と私の唯一の違いは、私が狂っていないことだ」というような尖った発言を繰り返し、ますます話題を振りまいた。ダリがニューヨークを発つ前、ボストンの大富豪でブラジャーを発明した女性、カレス・クロスビーは、彼のために仮装舞踏会を開催している。ダリはガラスケースに入ったブラジャーを胸につけ、ガラは頭から出産する女性の仮装でこの舞踏会に出席した。

ダリはほかにも、ロンドンでの講演で深海用のダイビングスーツを着て窒息しそうになったり、パリの講演会場にカリフラワーでいっぱいのロールスロイスで乗りつけたりしている。こうした奇行はメディアで大々的に取り上げられ、1936年にはタイム誌の表紙を飾った。

シュルレアリスム運動からの追放:ブルトンと決別する

ダリは政治的には右寄りではあったものの、本格的なファシストとは考えられていない。スペイン内戦中にフランコを支持していたダリは、ヒトラーにも熱を上げ、女性の姿をした総統の「白よりも白い肉体が私を貪る」夢を頻繁に見ると語っていた。《家具栄養物の離乳》(1934)という作品で浜辺にいる看護婦は、もともとはナチスの腕章をつけていたが、ダリはブルトンに説得されそれを消している。1939年に制作した《ヒトラーの謎》では、ヒトラーの小さな写真が置かれた皿の上に、巨大な受話器から粘性のある液体が滴っている。ダリはまた、ナチスに好意的だったウォリス・シンプソン(イギリスのエドワード8世が王位を捨てて結婚した女性)とも親交があった。

しかしダリは、「事実としても、意図としても、私はヒトラー信奉者であることはない」と主張していた。しかしブルトンは、ダリをシュルレアリストのグループから追放しようと、1934年に彼をファシストだとして「裁判」にかけた。このとき、かろうじて追放を免れたダリは、「シュルレアリストたちと私の違いは、私がシュルレアリストであるということだ」とコメントした。

それでも彼は、フランコを支持したことでブニュエルなど仲間たちの友情を失った。そして、1939年に第2次世界大戦が勃発すると、ブルトンはダリが人種間戦争を支持していると主張し、ついに彼をシュルレアリスト運動から追放することに成功した。ブルトンはまた、かつては「非常に重要な方法」だと賞賛していたダリの偏執狂的・批判的方法を、厳しく非難するようにもなった。

その後のキャリア:アメリカでポップカルチャー的な存在になる

サルバドール・ダリ《目覚めの直前、柘榴のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢》(1944) Photo: Collection Thyssen-Bornemisza National Museum, Madrid. Copyright © Salvador Dalí, Gala-Salvador Dalí Foundation/DACS, London 2023

ブルトンがダリを目の敵にしたのは、スター扱いされていた彼に対する嫉妬に加え、ダリの政治的正しさの欠如も原因だった。そうした感情は、彼がダリの名前を構成する文字を並べ替えて作ったアナグラム「Avida Dollars」(ドルの亡者)によく表れている。ブルトンはその後何十年もの間、ダリの宿敵であり続け、マルセル・デュシャンが1960年にニューヨークで企画した展覧会からダリを排除するよう働きかけたほどだった(この試みは失敗に終わっている)。しかし、ダリの名声は高まり続け、次第にアーティストというよりもポップカルチャー的な現象となっていった。

シュルレアリスム運動から追放された同じ年に、ダリはニューヨーク万国博覧会で「ヴィーナスの夢」というパビリオンをデザインした。これは愛の女神に捧げられたアトラクションで、コニーアイランドの遊園地にあるビックリハウスを凌ぐような、仕掛けに富んだものだった。彼はハリウッドにも進出し、ロマンティックスリラーの『夜霧の港』(1942)や、アルフレッド・ヒッチコック監督の精神分析スリラー『白い恐怖』(1945)のために夢のシーンをデザインした。しかし、どちらのシーンも制作スタジオの重役の意向で大幅にカットされてしまった。また、1946年にはディズニーのアニメーター、ジョン・ヘンチと共に『デスティーノ』という短編の制作に取り掛かった。しかし、このプロジェクトは絵コンテとテスト映像を作っただけで頓挫し、ダリの死後数十年経った2003年に完成している。

1948年、ダリはライフ誌に見開きで掲載された有名な写真に登場した。ハイスピードカメラで撮影されたこの写真では、イーゼル、踏み台、椅子と共にアトリエを浮遊するダリの前を、バケツから投げられた水と3匹の猫たちが横切っている。このショットを撮るまでに、28回やり直しをしたという。

さらに、大衆向けデパートのシアーズが開発した香水に自分の名前をライセンスし、シアーズはダリ作品の複製を額装して販売した。ほかにも、ランバンチョコレート、解熱剤のアルカセルツァー、ブラニフ航空などのテレビ広告に出演。ブラニフ航空のCMでは、ダリがニューヨーク・ヤンキースの殿堂入り選手、ホワイティ・フォードとピッチングについて語り合う様子が見られる。

ダリは、後にアンディ・ウォーホルがやることはすべてやっていた。しかし、ウォーホルはダリのように自分の芸術を貶めることはなかった。1976年と1977年、ダリは1万7500枚の紙にサインをして白紙のまま販売した。版画制作のプロジェクトのためだったが、それが実現することはなく、代わりにそれらの紙は贋作に使われた。

晩年:時代の精神を反映した作品を残す

キャリア初期の傑作には決して及ばないものの、晩年のダリは《幻覚剤的闘牛士》(1968-70)のような秀作も残している。ローマの闘技場を次第に遠ざかりながら横切る、複数のミロのヴィーナスたちを描いたこの作品は、LSDが流行ったこの時代の精神を巧みに反映している。

1980年にダリはパーキンソン病を発症し、うつ病や薬物中毒などの健康問題で苦しむようになる。1982年にガラが亡くなると、彼の病状は悪化。食事を拒否し、1984年の火事で負った火傷からかろうじて回復した。そしてその5年後、84歳の時に心停止により故郷のフィゲラスで死去している。ダリは、幼少の頃に住んでいた家からほど近い場所に埋葬され、芸術史における幻想的な一章の上に影を落とし続けた兄とともに眠ることになった。(翻訳:野澤朋代)

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