明治期に大活躍した二人の女性画家──男装を貫いた奥原晴湖と画業で一家を支えた野口小蘋【見落とされた芸術家たちの美術史 Vol.3】

大和絵の時代から近代に至るまで、なぜ日本史や美術の教科書に登場する巨匠は男性ばかりなのか? その社会的な理由と数少ない女性画家たちの歩みを、ジェンダー美術史を専門とする吉良智子が紐解く連載。第3回は、幕末から明治初期の転換期に活躍したふたりの女性について。

奥原晴湖の《山水》(1874)。「東海書き」と称された勢いのある筆致が特徴的。出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-322?locale=ja)を元に作成。

──前回は女性が職業的なアーティストとしてはが活躍しづらかった日本の近世(江戸時代以前)特有の理由について伺いました。今回のテーマは幕末から明治初期ですが、この時代は日本社会全体が大きく変わった時期ですよね。

そうですね。ただ、明治初期はまだ市民が江戸時代の雰囲気をまといながら生活していた時期で、例えば西洋的な良妻賢母主義が広まるのは明治30年代(1900年前後)ごろになってからのことでした。

この転換期の女性アーティストに、奥原晴湖と野口小蘋というふたりの日本画家がいます。晴湖は1837年、小蘋は1847年とふたりとも江戸時代の生まれで、いわゆる近代的な美術教育は受けていない世代ですが、明治の女性南画家と言えばこのふたりと言われるほど高く評価されています。

──前回、江戸時代までの女性アーティストは父親や夫が有名な画家であることが多いというお話がありましたが、お二人の場合はどうなのでしょうか?

ふたりとも身内に有名な画家がいるわけではありませんでした。ただ、画を習える家柄ではありました。

奥原晴湖は現在の茨城県の生まれで、父親は古河藩士です。蘭学者の鷹見泉石や南画家の枚田水石に師事していました。ただ、古河藩は女性が旅をすることを禁じていたんですね。そこで、文人画家として旅をしながら画を描きたかった晴湖は、関宿領の親類にあたる奥原家の養女となって江戸に出てきたそうです。

──養子という抜け道を見つけたんですね。

結婚という方法だとまた別のしがらみにとらわれてしまうからでしょうね。こうしたことは、良妻賢母規範が定着したあとだと難しかったかもしれません。その後、晴湖は江戸にアトリエを構えて活動し、当時内務大臣だった木戸孝允がパトロンになったこともあり、とても有名になりました。前半生ではダイナミックな筆使いの水墨画が描いていますが、後半生では写実的で彩り豊かな作風へと変化します。多い時には数百人の弟子を抱えていて、岡倉天心もそのひとりでした。ただ、中央画壇とは距離をとっていたようです。余談ですが、晴湖は常に男装をしていたことでも有名です。散切り頭に男物の着物を着ていたそうですよ。

その後、西洋化によって文人画というジャンル自体が衰退してしまいます。それでも晴湖は熊谷に隠棲したり、晩年は各地を旅したりしながら、新しいテクニックや画風を開拓していきました。市民が巻き込まれるような大きな戦争のない江戸時代に生まれ、良妻賢母主義が定着する前の社会だったからこそ許された女性としての生き方だったとも言えます。

奥原晴湖の《深天上按図》(1869)©東京富士美術館

──晴湖は生涯にわたり画の道を追求し続けたのですね。野口小蘋の場合はどうだったのでしょうか?

野口小蘋は大坂のお医者さんの娘として生まれました。お父さんが文人の集まりに参加していたこともあり、幼いころから書や画の教養を深めたそうです。ただ、小蘋が10代半ばのころにお父さんが亡くなってしまうんです。小蘋は母親を養うために旅をしながら画を売るようになります。その後、京都に移って文人画家の日根対山に弟子入りし、山水画や花鳥画、美人画などを学びました。

31歳になると小蘋は滋賀県で酒造業を営んでいた野口家に嫁ぎます。ただ、その夫がビールの事業に失敗して廃嫡されてしまうんですね。小蘋は夫と娘をつれて上京して、画家として家族を養うことになります。

──小蘋はずっと画で家族を養っていたんですね。

そうなんです。ただ、小蘋の場合も京都時代に木戸孝允と出会っていたことが幸いしました。彼がパトロンとなっていたことで、名が売れていったんですね。やがて、皇居内の障壁画を制作する機会も得て、その後は皇室や宮家など御用達を多く手がけました。伝統的な南画に日本の風景を加味した穏やかな作風は、日本だけではなく、作品を出品した海外の万博でも人気を博しました。

そうした繋がりもあり、40代になると華族女学校で画学嘱託教授になります。西洋的な良妻賢母の価値観が日本に入ってくるなかで、女子にも美術の教育が必要だと思われ始めた時期とちょうど重なったんですね。その後の1904年には、女性初の帝室技芸員(帝室による美術工芸作家の保護と奨励・発展を目的として設けられていた顕彰制度)にも選ばれました。

野口小蘋の『蘭亭曲水図屏風』。シカゴ美術館所蔵。©Gift of Roger L. Weston

──時代の流れにうまく乗りながら芸術で身を立てていったのですね。

そうですね。実は、結婚していたということも小蘋にとっては有利に働いたのかもしれません。妻や母としての立場に立ったことがある人の方が、女子教育者としてふさわしいという考え方があったからです。また夫の事業が失敗したことにより絵筆で一家を養わなければならなくなったので、皮肉ですがもしそうした状況でなかったら職業画家として今日の評価をえられたかどうかはわからないですね。将来独身だった奥原晴湖とは逆と言えば逆の生き方だったと言えるかもしれません。

──ありがとうございます。次回は良妻賢母教育とアートの関係について伺っていきます。

第4回はこちら

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