明治の美術教育は「嫁入り道具」だった? 良妻賢母主義とアートの関係【見落とされた芸術家たちの美術史 Vol.4】
大和絵の時代から近代に至るまで、なぜ日本史や美術の教科書に登場する巨匠は男性ばかりなのか? その社会的な理由と数少ない女性画家たちの歩みを、ジェンダー美術史を専門とする吉良智子が紐解く連載。第4回は良妻賢母主義と美術教育について。
──今回は、明治30年代(1900年前後)のお話を伺えればと思います。この時期は、良妻賢母主義が広まり始めた時代ですよね。
はい。伝統的な儒教観に、近代国家をつくるべく西洋的な家族観や女子教育が加わってきたころです。明治時代に入ると、男性が戸主として家を統治する「家制度」ができました。家族国家観も打ち出され、「近代家族」が大々的に宣伝されました。
──近代家族、というと?
江戸時代以前は、家というと親戚や使用人も含めたもっと大きな共同体のイメージだったんです。しかし明治以降になると、家長としての父親、それを支える母親、そしてその子どもたちという家族の単位が打ち出され、そのイメージが錦絵や学校教育を通して流布されていきました。例えば、当時の天皇家もそのロールモデルを担っています。性別的な役割としても、天皇は政治や軍事を司る存在として、皇后は教育や看護といったケアの役割を担う存在として画になるんです。例えば、華族女学校に見学に行く皇后の図、病院を訪問する皇后の図といった画がその例ですね。表象におけるそうした天皇家の役割について、多木浩二さんの『天皇の肖像』や若桑みどりさんの『皇后の肖像』で明らかになっています。
──そうした変化の中で、女子教育も変わっていったんですね。
はい。1899年に高等女学校令が交付されると、いわゆる良妻賢母教育が行なわれるようになります。女性はケアの役割を担う存在とされ、国語や数学といった一般教育に加え、家事や裁縫も学校教育のなかで体系的に学ぶようになるんです。ただし、女子の就学率は当初とても低かったようです。経済的な問題や「女に学問は必要ない」という意識が根強く残っていたせいで、女子への教育はなかなか定着しませんでした。
──男女間で教育の内容が異なっていたと。尋常小学校も、一定の学年以降は男女別学になっていましたよね。
これについては、『視覚表象と音楽』というアンソロジーに所収されている山崎明子さんの論文「美術教育をめぐるジェンダー・システム」で詳述されていますが、教科書も男女で異なっていたようです。例えば、女子の国語の教科書には、お母さんと娘2人をめぐる家事育児のシミュレーションがなども掲載されました。また、のちに導入される美術教育では、男女で描かせるモチーフに違いがあることもあったそうです。当時の美術教育は、お手本を写させる「臨画」という方法が主なのですが、女子ならばカバンや針箱、火熨斗(現在のアイロン)といった身の回りの品が多く、男子は高枝ばさみや農具、砲弾などが掲載されていました。男女で異なるモチーフを描かせるという方針は教育現場のなかで生まれ、それが今も続いているとも言えます。
──そうしたモチーフの使い分けは、以前からあったのでしょうか?
意外とこの100年ちょっとで生まれた使い分けもあるんです。例えば、私はこの数年、人形の研究をしているのですが、実は江戸時代まで人形は女の子だけのためのものではなかったんです。もちろん「ひいな遊び」のような平安時代に起源を持つ女児の遊びもありますが、必ずしも女性の文化だけに集約されるものではありません。例えば、人形の衣装を菊でつくる「菊人形」は男性も趣味として楽しんでいました。ビジュアルやモチーフに明確な性差が出てくるのは、明治期以降なんですよね。
──そうした体系的な美術教育があったにもかかわらず、女性アーティストが活躍できなかったのはなぜなのでしょうか?
女子に美術を積極的に教えようという議論はあったものの、その目的が「嫁入り道具」だったからですね。
──嫁入り道具?
子育てのために使う技術、という意味です。さきほど言及した山崎さんの研究によると、絵の教養があれば、子どもに絵を描いて見せて教育を施すことができるので、子の養育に役立つという論理だそうです。そういう意味では芸術というよりも、裁縫を含めた技芸としての美術教育なんです。この時代、女性が身に着ける技術や教養はすべて、家庭に収れんされていました。一方で、男性は近代的な文化の担い手としての未来が想定されていたんです。
──そう考えると、女性画家の存在自体が想定外だったわけですね。
そうですね。ただ、前回お話した野口小蘋のように、女性に教育を施す女性は必要とされていたんです。対外的にも近代国家の一員として恥ずかしくない女性を育成するためには、ある程度の教養を身に着けさせるための教育が必要だったので。
──教育以外で美術の道を極めることが難しかったんですね。
そうです。ただ例外もあります。例えば1905年(明治38年)に生まれた日本画家の片岡球子には幼いころからの許婚がおり、日本画も花嫁修行のひとつとして始めました。でも、日本画にのめりこんでしいまい、その道を極めるために婚約を破棄するんです。実は、コンクールで入賞したら結婚するつもりだったらしいのですが、「落選の神様」と呼ばれるほどに落ち続けてしまう。ずっと待たせるのも申し訳ないからと、自分から婚約を破棄したそうです。そこから彼女は画業一筋で生きています。
──ありがとうございます。次回は女子美術大学をはじめとする美術教育について伺えればと思います。
第5回はこちら。