日本画は「品のよい趣味」、西洋画は「不良の遊び」? 女子美術大学の誕生と近代教育の始まり【見落とされた芸術家たちの美術史 Vol.5】
大和絵の時代から近代に至るまで、なぜ日本史や美術の教科書に登場する巨匠は男性ばかりなのか? その社会的な理由と数少ない女性画家たちの歩みを、ジェンダー美術史を専門とする吉良智子が紐解く連載。第5回は女子美術大学に誕生に始まる近代教育システムと、それをとりまく社会の目について。
──前回は良妻賢母主義と美術教育について伺いました。明治時代の美術教育は、女性の芸術家を育成することではなく、子どもの教育に役立つ教養を身につけることに主眼が置かれていたというお話でしたが、そのなかでも画業で身を立てる女性が少しずつ生まれていましたよね。実際のところ、日本で女性アーティストが増えるのはいつごろからなのでしょうか?
明確な区切りはありませんが、私の感覚としては大正時代以降です。1900年(明治33年)に私立女子美術学校(現・女子美術大学)が設立され、その教育を経たアーティストの層が厚くなったのが大正期でした。例えば、足助恒という画家は女子美の西洋画科の第1期卒業生です。彼女は岡山の酒造家の長女で、周りに絵画に携わる人がいませんでした。
──これまで連載で紹介したアーティストの多くは、身内に画家がいたり、幼いころから画を習える環境にいました。そう考えると時代の変化を感じます。
近代教育システムから出てきた最初の女性アーティストのひとりと言えるでしょう。ちなみに、同時期の女子美出身のアーティストに亀高文子がいますが、彼女の場合は父親が水彩画家でした。同年代でありながら非常に対照的な生き方をしたふたりです。
女子教育の芽生え
──それまで女性がアートで身を立てることが想定されていなかったにもかかわらず、なぜこの時期に女子美が設立されたのでしょうか?
美術に限らず、この時期には私立の女子教育機関が多く誕生したんです。1900年には津田梅子の女子英学塾(現・津田塾大学)や吉岡彌生の東京女医学校(現・東京女子医科大学)が設立され、翌年には日本女子大学校(現・日本女子大学)も開校しました。女性も手に職をつけて社会のなかで自立するという意識が芽生え始めた時期だったのでしょう。
──ずいぶんと急な変化に思えますね。
女子教育機関の設立の背景には、女性のプロを世に出すことが想定されています。とはいえ、現在もそうですが、社会の意識があるときを境に潔く切り替わることはありません。例えば、明治4年(1871年)には津田梅子が岩倉使節団とともにアメリカに渡っており、明治初期には「これからは女性も外に出ていく」という意識も一部はあったと考えられます。けれども、そのあと良妻賢母規範が広く確立されることからもわかるように、女性の地位向上や社会進出は進展とバックラッシュの繰り返しなんです。
──女子美の建学の精神には「芸術による女性の自立」、「女性の社会的地位の向上」、「専門の技術家・美術教師の養成」とありますね。
そうなんです。ただ、女子美に入学した学生たちが全員アーティストを目指すかというとそうではありません。女子美には編み物や刺繍、裁縫など、いわゆる手芸に分類される学科もあり、学生のほとんどはそちらを学んでいました。設立当初からあった彫塑科と蒔絵科は志望者が少ないがゆえに授業がなくなり、日本画科と西洋画科も何度も廃止の危機に瀕していました。
──そうした人気の差には、どのような理由があったのでしょうか?
第1回でも少しお話ししたように、手芸は「平時は奥様の優雅な趣味」「いざとなったときの内職の技術」という二面性をもっていました。それゆえに社会的に受け入れられやすかったんです。ただ、普段は趣味として扱われるがゆえに、社会に絶対的に必要とされているにもかかわらず低賃金に留め置かれてしまうというマジックが起こるんです。これは現代のケアワークの問題につながる話で、山崎明子さんの『近代日本の「手芸」とジェンダー』に詳しいです。ちなみに、初期の女子美で西洋画を学んでいた卒業生たちに話を聞いたことがあるのですが、先生たちから「あなたたちは裁縫科の学生のおかげで学べている」と言われるほどだったそうです。
西洋画科は不良?
──学校経営の観点からも、西洋画の重要度は高くなかったということですね。
西洋画は特に「不良生徒の集まり」というイメージが強かったようです。そもそも西洋画を学ぶことは女性の規範に収まらない行為なので、不良であると。「西洋画を学んだらお嫁に行けない」と本気で思われているような時代でした。
──西洋画と日本画の間にも、大きな差があったのですね。
当時の女子美に通う女性たちを世間がどう見ていたのかを表すイラストが残っています。近藤浩一路の『校風漫画』(1917)という本です。女子美だけなく、さまざまな学校の学生のステレオタイプを描いた本なのですが、そこに女子美も登場しています(冒頭画像)。
──「人目の多い處(ところ)を選んでこれ見よがしに臆面もなく活歩往来する様は實(じつ)に實にすさまじい」とありますね。
画材からして明らかに西洋画科の学生です。右側から二番目の男性が揶揄するように指をさしています。これは周りにいる男性、そしてこの本を読む読者にも、「あの女の子を見て一緒に笑おうよ」と呼びかけているわけです。
──気分が悪くなりますが、当時の雰囲気を記録した貴重な資料でもありますね。
このイラストでは女性が楽しそうにしていますが、外に写生に行くとみんなにはやし立てられて嫌だったと話す学生のインタビューも残っています。そういう意味でも、世間がもつ西洋画科の学生に対するイメージと、実際の学生たちの心情とはかなりの乖離があったことが伺えます。
──ちなみに日本画科の学生も同じ扱いを受けていたのでしょうか?
日本画は西洋画よりも受け入れられていました。というのも、花嫁修業になるからです。プロになることは想定されていませんが、伝統的なお稽古事なので「よいところのお嬢さんの品のよい趣味」で学ぶことはよしとされていたんです。西洋画科志望の学生のなかには、親に「日本画じゃダメなのか」と説得された人もいたそうです。もちろん、前回お話した片岡球子のように花嫁修業からプロを目指す例外もあり、それもあって日本画は西洋画に先行して女性画家が誕生していきました。そこから、いわゆる女性によるアーティストコレクティブのようなものも登場したんです。
──ついにコレクティブができるのですね。次回はそのお話を伺えればと思います。
第6回はこちら。