世界屈指のギャラリーはいかにして生まれたのか。設立40周年を迎えたタデウス・ロパックに聞く
現在、タデウス・ロパックの設立40周年を祝う企画展が、オーストリア・ザルツブルクにある同ギャラリーの2拠点で開催されている。ロパック本人に、世界屈指のアートギャラリーを運営する意義、作家との関係性、巨大化するアートビジネスやアートフェアの問題点などについて話を聞いた。
ヨーゼフ・ボイスとの出会いからアートの世界へ
オーストリア生まれのタデウス・ロパックは、20代前半の頃、先駆的なドイツのコンセプチュアル・アーティスト、ヨーゼフ・ボイスのプロジェクトに関わる機会を得た。1982年のドクメンタ7で発表された《7000本の樫の木》で、開催地のカッセルに木を植える仕事に携わることができたのだ。それまでロパックはアートの世界とは無縁で、まだ進路を決めかねていた。
しかし、革新的な仕事で長年カルト的な人気を博してきたボイスに間近で接したことが、彼の人生の大きな転換点になった。その後ロパックは、ボイスの作品を指針にして、どのようなアーティストに注目すべきかを判断するようになった。
「彼との出会いですべてが変わったのです。私は彼の理論や、コンセプチュアルなアイデアの信奉者でした」
こうしてロパックは、ボイスとの出会いから1年後の1983年、オーストリアのザルツブルグにギャラリーを開いた。彼に言わせると、街の中でも立地がいいとは言えない場所だった。それに、ヨーロッパの他の都市がシーズンオフとなる夏でもオーストリアは賑やかだったが、街を訪れる人々のお目当てはアートではなく、「完全に音楽一色だった」。
63歳になった今も、昔を懐かしむ時間はないとロパックは話す。それよりも、40年間育ててきたアーティストたちをどう支え続けられるかで頭がいっぱいなのだ。自分が参入した頃とは比べものにならないほど大きく膨れ上がったアート市場で、作品をどう売っていくべきか──彼は、これまで何人もの著名アーティストと契約を結び、現在もその関係を維持しているが、所属作家の多様さは戦略よりもむしろ直感のたまものだと強調する。現在開催されている40周年記念展では、70人のアーティストの作品を見ることができる(9月末まで)。
常に自分が心を動かされるアーティストと組む
──まず、ザルツブルグでギャラリーを立ち上げた経緯と、当時のアートシーンについて教えてください。
そもそもは、ウィーンでヨーゼフ・ボイスのインスタレーション《Basic Room Wet Laundry》(1979)を見て、大きく心を動かされたのが始まりでした。それはある意味、神経を逆撫でするような衝撃的な体験でした。私が現代アートを意識し始めたのはその時です。私は友人たちと一緒に、展覧会を企画したいと考えるようになりました。とはいえ、当時はまだ自分もアーティストになりたいという思いがあったので、アーティスト・ラン・スペースのようなものを構想していました。
1982年は信じられないような年でした。ベルリンの展示施設マルティン・グロピウス・バウの中央吹き抜けで「ツァイトガイスト(時代精神)」という展覧会があり、イギリス人キュレーターのノーマン・ローゼンタールが世界中の素晴らしいアーティストたちを招いていました。これを見て、ベルリンからオーストリアに戻る頃には、自分が展覧会を企画するとしたらどんな作家を呼びたいか、頭の中にリストができていました。
──転機が訪れたのはいつですか?
オーストリアに戻ってすぐにギャラリーを開き、ドイツで出会ったアーティストたちを紹介したいと考えました。最初はウィーンがいいと思ったのですが、何かしっくりこなかった。そんなとき、オーストリアの画家オスカー・ココシュカが書いた『School of Seeing(見ることの学校)』という本と出会ったのです。彼は1953年以降、毎年夏の2カ月間だけザルツブルクで美術セミナーを開いていました。ポートフォリオでの選考なしに誰でも参加できる、とてもオープンな学校でした。
──ギャラリーには60人ほどの所属作家がいますが、美術史的な影響という点でとても幅広い顔ぶれです。コリー・アーカンジェルのようにテクノロジーに焦点を当てた比較的若いアーティストもいれば、ヴァリー・エクスポートのような商業的とは言い難いカルト的アーティストもいます。また、ロバート・ラウシェンバーグのように既に他界している大御所の遺産管理団体とも仕事をしています。どのように現在の作家陣を形成していったのでしょうか?
私はアメリカのアートにとても魅力を感じていました。だからウォーホルに会いたかったし、ラウシェンバーグにも会いました。また、バスキアのような当時の若手とも知り合い、バスキアの存命中には彼の展覧会を3度開いています。その一方で、中心となるのはドイツやオーストリアのアートになるだろうと常に思っていました。
どの作家と仕事をするかは、直感で決めることが多かったと思います。少なくとも、ある程度はその作品を理解できているという確信がなければなりません。私はいつも自分が心動かされるアーティストと組んでいます。
アーティストとの密な関係で信頼されるディーラーに
──古株の作家たちとは、共に成長してきたとも言えますね。
一番長いのは、ゲオルク・バゼリッツです。ギャラリーのオープニング展を開いたのが1984年のことで、1986年にバゼリッツのドローイングの展覧会を開きました。当時の私はまだ若過ぎたし、ギャラリーの規模もあまりに小さかった。でも、90年代に入る頃には本格的に作家の伴走ができようになりました。
──所属アーティストの何人かが拠点にしていたパリにも進出していますが、どのように規模を拡大していったのですか?
密に関わりながら一緒に仕事ができるギャラリストとして、次第にアーティストたちから信頼してもらえるようになりました。立ち上げから10年間は、そういう足場固めに奮闘したものです。
パリ進出を決めたのは、ザルツブルグが街として小さすぎると感じはじめたのが理由です。夏期シーズンにアート好きの人々が集まる場所ではなかった一方で、アーティスト側にはアートファンに売り込んでほしいという期待がありました。ただ、既にドイツ語圏に拠点があったので、ウィーンやベルリンに出店する気にはなりませんでした。パリは私にとってちょうどいい場所で、アーティストとの距離を縮めるのにも最適だったのです。
──当時のアートビジネスは、今とはずいぶん違いましたね。
その頃のアート市場は、今のように大きくはありませんでした。作家たちも最初からたくさん売れるとは思っていなかったので、彼らを失望させることもありませんでした。
──タデウス・ロパックでは、イレーン・スターテヴァントやドナルド・ジャッドといった故人の作品も扱っています。こうした面々がギャラリーの作家陣に含まれていると、ある種、美術館のような重みが加わります。彼らと生前に関係を築いていたからこそだと思いますが、そのことについて教えてください。
スターテヴァントと知り合ったのは、1980年代のニューヨークでした。その後、パリに移り住んだ彼女が亡くなるまで一緒に仕事をしました。なので、彼女の遺作を扱うのは自然な流れでした。ボイスはもちろん、私が昔から深く尊敬してきたアーティストで、彼の作品を託して貰えることになり、とても光栄に思っています。
私たちが現在扱っている中で、生前に個人的な付き合いがなかったのはドナルド・ジャッドだけです。私にとってミニマリズムは、完全にアメリカ生まれだと言える芸術運動の1つで、20世紀後半のアートにアメリカらしさを加えた運動だと思っています。
ビジネス拡大はアーティストのため
──昔に比べはるかに大きな組織になり、マーケットが様変わりする中でソウルにも進出しました。意図的にビジネスの拡大を目指してきたのですか?
拡大は必須事項ではありませんが、可能性につながります。アーティストには最高のインフラを提供したいですし、可能な限り良い方法で作品を売りたいと思っています。また、特にアジアで競争が激しくなってきていることもあります。ヨーロッパで拠点を増やした時も自然な流れでそうなりました。ザルツブルクからパリに進出したのは、そうすることでアーティストたちを最高の形で支援できると思ったからです。
──成長とは、新しいオーディエンスを開拓することでしょうか?
成長の手段として拠点を増やしているわけではありません。新たな場所でそれまでとはまったく違う観客と対峙すると、新たな地平が開けてきます。必ずしもビジネスの拡大だけが目的というわけではなく、プログラムの企画など、新たな挑戦を通してアーティスティックな側面を磨きたいという思いがあります。
また、異なる文化環境を理解することも必要です。アジア地域で最も深い交流ができたと感じたのは韓国でした。韓国は、類を見ないほど洗練されていると感じています。コレクターのお宅を訪問するとジャッドの彫刻が飾ってあり、いつ手に入れたのかと尋ねると、制作されて間もない80年代だという答えだったりします。そういうエピソードに事欠かない、非常に刺激的な場所なのです。
──アジアで新たな市場を開拓するのは難しい面もありませんか?
より多くのリスクを伴いますし、時にはまるで西部開拓時代のように、何でもありなところもあります。いずれにしても、異なる文化に対して、いかに敬意をもって接するかが大切です。
それに、作品を理解する文脈も違います。アメリカとヨーロッパは、アートの世界では密接に協力し合いながら成長してきましたが、韓国のアーティストたちは必ずしも常にヨーロッパやアメリカの考え方に賛同していたわけではありません。1950年代から60年代にかけてのアバンギャルドの時代には、日本を参考にした部分があるかもしれませんが、概ね独自の芸術言語を発達させてきました。欧米とは出発点がまったく違うのです。
加速する市場のスピードの犠牲者を出したくない
──今はビジネス規模も大きくなり、環境は激変しました。
私がスタートした頃は、ヨーロッパのアーティストはアメリカで、アメリカのアーティストはヨーロッパで作品を見せたいと望んでいました。とても狭い世界で、ラテンアメリカやアジアには目が向けられていませんでした。ところが、1989年にパリのポンピドゥー・センターで開催された展覧会「大地の魔術師たち」で、それが実現したのです。
あれは、私の目指すべき方向を示してくれた数少ない展覧会の1つでした。パキスタンや韓国のアーティストも紹介されていました。それから少し経って、90年代の初めに韓国のイ・ブルの作品を見たときのこともよく覚えています。私は彼女に連絡を取って、一緒に仕事をするようになりました。こうした判断は全て、私がアーティストの作品に魅了され、その世界に入り込みたいと願ったことから来ています。
──今日のアート界に関して、懐疑的に思われる部分はありますか?
アート市場における投機的な側面が、ここまで強くなるとは思っていませんでした。今は、作家の仕事をどのように世に出していくのか、細心の注意を払わなければならず、その点が以前に比べて難しくなっています。
アートフェアの重要性を否定するつもりはありませんが、それが生み出すスピードは危険でもあります。アーティストは急速にキャリアアップすることもありますが、プレッシャーに負けて潰れてしまうこともあるからです。市場のスピードによる犠牲者を出さないために、売り方に気を配る必要があると考えています。(翻訳:野澤朋代)
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