妥協なきフェミニズム──女性への身体的抑圧に抵抗したキャロリー・シュニーマンの代表作5選
マルチメディア・アーティストのキャロリー・シュニーマンほど、フェミニズムの思想やアートにラディカルな影響を与えたアーティストはいないかもしれない。芸術における身体性を追求し、過激な性的表現でタブーに挑んだ彼女の代表的作品を紹介する。
タブーを恐れず身体性を追求したシュニーマン
1939年にフィラデルフィアのはずれで生まれたキャロリー・シュニーマンは、幼い頃からアートや身体の持つ表現力に興味を引かれていた。一家の女性で初めて大学に進学した彼女だが、ヌードの自画像を描いたことが理由でバード大学から停学処分を受ける。しかし同大学は、シュニーマンが男性の同級生のためにヌードモデルを務めることはまったく問題視していなかった。
第2波フェミニズム(*1)が台頭してきた頃の彼女の制作活動は、その波にうまく合致するものだった。実際、1957年に当時交際していた作曲家ジェームズ・テニーのヌードを描いた絵のように、最初期の作品はフェミニズムの到来を予感させていた。シュニーマンは悪びれることなく女性の視点から欲望を表現し、男性を欲望の対象としながらも家父長制的な価値観を否定している。しかし、時にその異性愛的な視点は、(女性のみのコミュニティを形成しようとする)レズビアン分離主義者たちの反感を買い、特に後述する映像作品《Fuses》が1970年代初頭にシカゴ美術館で上映された際には猛烈な批判にさらされた。
*1 1960〜70年代にかけて起こった第2波フェミニズムの運動は、主に女性が家庭に縛られず職業を選び自由に生きる権利や、男性との対等な地位などを求めた。それに先立つ19世紀末から20世紀初頭の第1波フェミニズムは、男性と平等の市民権を求めるもの。1990〜2000年代にかけての第3波フェミニズムでは、人種や階級の問題、また、社会や文化によって形成される女らしさ、男らしさというジェンダーの問い直しに焦点が当たるようになった。
やがて時代が移り、第3波フェミニズムが起こると、シュニーマンは自分の仕事に対するフェミニストたちの受け止め方が愛憎相半ばするものに変化したと感じるようになった。その頃の彼女は、前衛芸術を共に引っ張ってきた同世代の友人や仲間たちを追悼するような、哀愁を帯びた作品を作っている。
しかしそんな中でも、ずっと変わらなかったことがある。それは、女性器から取り出したマニフェストを読み上げた《Interior Scroll》(1975/77)、鑑賞者に戦争犯罪の恐ろしさを正面から突きつける《Viet Flakes》(1962-66)、死に向かって空中を落下していく9.11の犠牲者の姿を拡大した《Terminal Velocity》(2001-05)などの作品に見られる、文化的タブーをものともしない姿勢だ。
シュニーマンは、ヴェネチア・ビエンナーレで金獅子賞生涯功労賞を受賞した2年後の2019年に死去。2022年秋から2023年初めにかけ、ロンドンのバービカン・センターで回顧展「Body Politics」が開催された。以下、シュニーマンの主要5作品を、同展を企画したバービカンのキュレーター、ロッテ・ジョンソンのコメントとともに見ていこう。
1. 《Aria Duetto Pin Wheel(アリア 二重唱 かざぐるま》(1957)
シュニーマンはパフォーマンス・アーティストと呼ばれることが多い。狭い見方をすれば確かにその通りかもしれないが、本人は生涯を通じて、自分は何よりもまず画家であると主張していた。彼女は抽象表現主義に大きな影響を受け、セザンヌによって人生が変わったと語っている。とはいうものの、彼女は長年セザンヌを女性だと誤解していたという。そのため、1975年に出版された彼女の著書には、『Cézanne, She Was a Great Painter(セザンヌ:彼女は偉大な画家だった)』というタイトルが付けられていた。
シュニーマンにはカンバスの枠に収まらない絵画作品が多い。たとえば、陶芸用のろくろに取り付けられた初期の作品《Aria Duetto Pin Wheel(アリア 二重唱 かざぐるま)》は、絵画とパフォーマンスの融合から生まれたものだ。この作品を制作した当時、彼女はカンバスに向かう前の準備として、スタジオで音楽をかけて踊ることを習慣としていた。シュニーマンにとって音楽は作品を作るうえで欠かせないもので、《Aria Duetto Pin Wheel》では、バッハのカンタータ「イエスよ、汝わが魂を」のソプラノとアルトの二重唱がダイレクトに作品名にも反映されている。
この作品を制作するにあたってシュニーマンは、カンバスをろくろに乗せて回転させながら絵の具を塗った。出来上がった作品を展示する際にも、ろくろに取り付けたままにして、かざぐるまのように回転させながら見ることができるようにしている。制作プロセスと完成作品を融合させることでカンバスの限界に挑戦し、鑑賞者が持つ絵画の概念を拡張しようとした《Aria Duetto Pin Wheel》の試みを、ジョンソンはこう表現する。
「シュニーマンは文字通り絵を動かしました。作品制作の過程だけでなく、鑑賞者がそれを体験する方法においても、筆致は動的(キネティック)なものになるのです」
2. 《Meat Joy(ミート・ジョイ)》(1964)
シュニーマンのグループパフォーマンスの中でも最重要作品の1つに数えられる《Meat Joy(ミート・ジョイ)》は、パリで創作され、ジャン=ジャック・ルベルが主催した「Festival de la Libre Expression(表現の自由フェスティバル)」で初演された。ジョンソンによれば、フランス語がほとんど話せず、堅苦しい社会道徳に辟易していたシュニーマンは、「肉体を讃美する」作品を作ろうと考えた。
「シュニーマンいわく、エロティックな儀式のようなものとして構想されたパフォーマンスでした」
参加者たちは毛皮の付いた下着を身につけ、生の鶏肉や魚、ホットドッグなどの食べ物を弄びながら身をよじる。赤いペンキがぶち撒けられ、ヌルヌルと滑る床の上で行われるパフォーマンスは、生々しい肉欲の祭典のようだった。当然ながら、この作品は大きな反響を呼び、ロンドン公演では警察に会場から追い出されたという。
このパフォーマンスで演じられた場面は混沌としたものに見えたかもしれないが、実は綿密に計画されたものだった。シュニーマンは作品のために「スコア」を作成し、パフォーマーの主体性を奪わない程度に明確な指示を出している。ジャドソン・ダンス・シアター(*2)の創設メンバーの1人だったシュニーマンは、そこでの経験を活かし、訓練されたダンサーや俳優ではなく、一般の人々をパフォーマーに起用した。彼らの自然なアプローチの方が、より刺激的だと感じていたからだ。
3. 《Fuses(ヒューズ)》(1964-67)
《Meat Joy》を制作したすぐ後にアメリカに帰国したシュニーマンは、ニューヨーク州ニューパルツに移り住み、18世紀半ばにユグノー派の移民が建てた石造りの家を借りた。シュニーマンはここで、恋人のジェームズ・テニーとの生活を撮影し、彼女が「ラブ・ファック」と表現したショートフィルムを制作している。ちなみに、後に彼女はこの家を買い取って終の住処とした。
《Fuses(ヒューズ)》の制作期間は3年に及ぶ。シュニーマンのカメラは一度に30秒しか撮影できないため、それは非常に骨の折れる作業だった。そうした制約もあってか、完成した作品は、日常のありふれた光景の間にシュニーマンとテニーのセックスシーンが挟まれたり、二重写しにされたりする細切れのせわしないモンタージュになった。シュニーマンはその後、フィルムを引っ掻いたり、雨風に晒したり、オーブンで焼いたり、コラージュしたりして、もとの映像に質感を加えている。その過程をジョンソンはこう説明する。
「フィルムそのものに対して触覚的で実験的なアプローチを行ったため、厚みでフィルムがプリンター(フィルムの原版を複製する機械)を通らなくなるほどでした。その結果生み出された映像は非常に詩的で、しばしば抽象化されており、観客がそこに映し出された身体や性行為を完全な形で見ることを制限しています。シュニーマンは、自分自身を見られるべき対象として、あるいはフェティシズムの対象として差し出すことを拒否しています。そうではなく、彼女自身が『生きた平等の感覚』と呼ぶテニーとの関係性を見せたかったのです」
シュニーマンとテニーは《Fuses》の制作後間もなく別れてしまうが、両者とも相手から受けた影響を創作活動の中で大切にし続けた。シュニーマンは、アート系オンラインメディア、ハイパーアレジックのインタビューでこう語っている。
「ジムの作品の影響で、私は不協和音や断片化、反復について考えるようになりました。たとえばコラージュでも見られるように、ある要素を2つに分割すると、その間にはエネルギーが生まれます。私たちの間にあった愛は、私の芸術に燃料を与え、それをずっと支えてくれました。人々から『くだらない』と言われたときも、私たちは2人で力を合わせて船を漕いでいたのです」
4. 《Interior Scroll(体内の巻物)》(1975/77)
もしあなたがシュニーマンの作品を1つだけ知っているとすれば、おそらくそれは《Interior Scroll(体内の巻物)》だろう。彼女はこのパフォーマンス作品を二度演じた。初演は1975年にニューヨークのイーストハンプトンで行われた「Women Artists Here and Now」展で、その後77年のコロラド州テルライド映画祭で再び上演されている。
この作品は、観客の前に裸で立ったシュニーマンが、女性器の中(interior)から細長い紙の巻物(scroll)を少しずつ引き出して、そこに書かれた文章を読み上げるというものだ。もともとは一度限りのパフォーマンスと考えていたシュニーマンだが、テルライド映画祭が女性映画作家のパネルディスカッションにセンセーショナルで性差別的なタイトルをつけたことを知り、すぐさまそこで二度目の上演を行う企画を立てた。さまざまな文面が検討されたこともあり、シュニーマン財団の所蔵品のほかにも複数のテスト用テキストなどが残っている。ジョンソンは《Interior Scroll》をこう評価する。
「シュニーマンは、身体から、そして身体の内部からの声に心を奪われていました。この作品は理屈抜きで生々しく、挑戦的なインパクトがあります。女性の身体に対して私たちが持つタブーの感覚や恐怖に立ち向かうこの作品は、彼女の妥協なきフェミニズムを象徴するものです」
キワモノ的だと揶揄されることが多かった《Interior Scroll》だが、ほかの作品と同様、このパフォーマンスも綿密な計画のもとに実行されていた。彼女は発表の場に細心の注意を払い、男性や保守的な女性が作品を見て騒ぎ立てることがないよう、進歩的なフェミニストの文脈で見せることにこだわった。また、実際に発表するまでには数カ月にわたって構想を練っている。それを証明するのが《The Message(メッセージ)》と題された1974年6月22日付のドローイングで、女性が膣から長い紙を引っ張り出す様子が描かれている。
後にシュニーマンは、この作品について相反する感情を抱くようになった。「彼女は当時を振り返り、本当は公衆の面前で膣から巻物を取り出すようなことはしたくなかったが、やらざるを得ないと感じたと言っていました」とジョンソンは回想する。
シュニーマンはまた、この作品があまりに注目されたため、ほかの作品が正当に評価されず、戯画化されてしまったとも考えていた。2015年のインタビューで彼女はこう語っている。
「それ以降の私の仕事を評価するときに、あの作品を通して判断しないでほしいのです。あの作品は、私の作品を批判し、私の制作プロセスの複雑さを否定するために持ち出されます。豊かで複雑な意味を持つ作品群を単純化し、無害化するために使われるのです」
《Interior Scroll》は初演時に撮影されていたが、残念ながらそのフィルムは残っていない。そのため、今日の研究者たちは、記録写真や現存する数少ない巻物(そのほとんどは未使用のもの)を通して、実際のパフォーマンスがどのようなものだったかを想像するほかはない。
5. 《Up to and Including Her Limits(彼女の限界まで)》(1970-76)
冒頭で述べたように、シュニーマンはヌードの自画像を描いたことでバード大学を停学処分になった。その根底には、女性の身体に対する腫れ物に触るような態度や、女性が自分の身体を主体的に扱うことを良しとしない風潮がある。シュニーマンのヌードパフォーマンス作品は、こうした圧力への反発として読むことができる。そんな彼女は、自分のパフォーマンスに驚いていた友人に向けてこう書いている。
「私は自分の裸を見せているわけではありません。私は私の身体としてそこに在るのです」
《Up to and Including Her Limits(彼女の限界まで)》は、こうしたテーマについてシュニーマンが最も鋭い考察を行った作品だ。シュニーマンは樹木医が使うハーネスに吊るされ、体を揺らしたり、ねじったり、曲げたりしながら、届くか届かないか絶妙な距離に広げられた大きな紙にクレヨンで描画する。《Up to and Including Her Limits》を全部で9回演じた彼女は、後に記録映像とクレヨンの筆跡がついた紙を組み合わせたインスタレーションに作り変えて、自身がその場にいなくても見せられるようにしている。
シュニーマンは《Aria Duetto Pin Wheel》と同じく、《Up to and Including Her Limits》を画家としての仕事だと捉えていた。それゆえ彼女は、ジャクソン・ポロックの身体的な絵画の制作方法をこの作品の着想源として挙げている。だがポロックとは違い、シュニーマンは自分の身体を作品の一部に組み込んだ。「彼女の限界まで」というタイトルが示すように、この作品には上演時間が設定されておらず、毎回彼女が限界だと感じる瞬間まで続けられていた。ジョンソンはその意図をこう語る。
「シュニーマンが感じていたのは、身体性を重視したポロックのようなアーティストでさえ、制作過程や作品そのものには身体が不在であることが多いということです。彼女は自分の身体と作品を結びつけたいと考えていました。つまり、彼女の生そのものが彼女の芸術だったのです」(翻訳:野澤朋代)
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