MoMAの創設と成功を支えた女性たち──発案者アビー・ロックフェラーらの革新性を振り返る
モダンアートの美術館として世界屈指の質と量を誇るニューヨーク近代美術館(MoMA)。この美術館を発案し、設立に向けて精力的に活動したのは3人の女性だった。中でもアビー・アルドリッチ・ロックフェラーは、MoMAの財政基盤やモダニズムにおける位置付けを確固たるものにする上で大きな役割を果たしている。その功績を具体的に見ていこう。
モダンアートの美術館設立を目指した開拓者たち
「モダンであることはできる。あるいは、美術館であることはできる。だが、その両方であることはできない」
作家でアートコレクターのガートルード・スタインによるこの言葉は、アメリカでモダンアートに特化した美術館の先駆けとなったニューヨーク近代美術館(MoMA)に内在する矛盾を的確に捉えていた。同美術館の設立者の1人、アビー・アルドリッチ・ロックフェラーは、昔ながらの妻であり、母親であり、主婦だったが、近代に焦点を当てた美術館が抱える矛盾に満ちた課題を明確に理解していた。彼女は熱意に溢れる仲間たちとともに、モダンアートが発展し、その推進者たちが活躍できる場の創造に尽力。モダニズムの支持者として、世界に冠たる美術館を作り上げるため、情熱と強い志を持つアーティストたちを鼓舞し続けた。
ロックフェラーが近代美術館の設立に情熱を傾け始めたのは、第1次世界大戦後に社会が大きく変化していた時代だった。この頃、労働不安が高まり、少し前に参政権を獲得していた女性が労働力としても存在感を高めていた。また、南部の黒人市民がこぞって北部へ移住する大移動も起きている。20世紀に入る頃に始まった大移動は、南部諸州でジム・クロウ法(有色人種に対する差別的な法律)がますます厳しくなるにつれて加速していた。彼らが目指したのは、北東部や中西部、西部諸州の都市だが、アメリカの主要な美術館のほとんどがそうした街にあった。美術や音楽、ダンス、文学の分野で文化的熟成が進んだニュー・ニグロ・ムーブメントが花開いた時期は、MoMAの設立が計画された時期と重なる。そして、MoMAから地下鉄で北へ向かい、セントラルパークを越えたところにあるハーレム地区が、世界の黒人文化の中心地となっていった。
MoMAの黎明期、あらゆる場面で存在感を発揮したのがアビー・アルドリッチ・ロックフェラーだ。彼女は、いくつものビジネスや公共事業を手がけるグローバル企業の経営者、ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの妻として膨大な資産を管理し、大家族を取りまとめてきた。彼女が初期のMoMAで安定した舵取り役を務めることができたのは、そうした仕事で培った経営手腕があったからだろう。16年にわたり、財務委員長(1929〜34年)、第一バイスプレジデント(1934〜36年、1939年)、第一副会長(1941〜45年)などの要職を歴任し、執行委員会や財務委員会を含むMoMAのさまざまな委員会のメンバーとして活躍した彼女は、ロックフェラー家の9階建ての邸宅があった場所に1939年にオープンした彫刻庭園の設立委員長も務めている。
さらに、MoMAのフィルムライブラリーや退役軍人のためのアートセンターの設立にも貢献。アートを通じた退役軍人の社会復帰支援を目指したアートセンターは、第1次大戦中、ロックフェラーがギャラリストでコレクターのメアリー・クイン・サリバンとともに参加していた活動の延長線上にあるもので、第2次大戦中と終戦後の数年間に数千人の元軍人を受け入れている。
MoMAの創設にあたり、ロックフェラー、サリバン、そしてリリー・P・ブリスの3人は、(慈善家で有力コレクターの)A・コンガー・グッドイヤーに声をかけ、美術館の初代会長就任の承諾を取り付けた。それに続けて彼女たちが取りかかった大仕事は、美術館の方針や目指すべき姿を定める理事会メンバーの選出だ。美術館の館長を選び、立地を決め、展覧会や常設コレクションの運営や出版物の発行のための資金を調達し、日々の組織運営に携わるスタッフの雇用に対し責任を負うことになる理事会の人選は極めて重要な課題だった。
そして3人は、グッドイヤー会長と話し合いながら志を同じくする熱心な専門家や現代アートの支援者からなる設立委員会を組織する。正式な理事会の前身となったこの設立委員会のメンバーは、それぞれが持つ専門知識とスキルを活かして美術館運営の指針を定めていった。たとえばポール・J・サックスは、家族が経営する投資会社ゴールドマン・サックスの元パートナーで、ハーバード大学の教授として美術を教えながら、同大学附属のフォッグ美術館で副館長を務めていた。美術館や美術史、美術作品の評価に関する彼の授業は、美術館の専門家を養成する教育の基準になるものとして定評があった。
また、フランク・クラウンニンシールドは、アメリカ有数のカルチャー誌ヴァニティ・フェアの編集長で、アフリカ美術のコレクターでもあった。クラウンニンシールドはメディアに関する鋭い感覚を持っていただけではなく、当時の一流アーティストや著述家に造詣が深かった。さらには、アメリカ紙幣用の紙を製造していた企業の経営者であるウィンスロップ・マレー・クレーンの未亡人、ジョセフィン・ボードマン・クレーンもメンバーの1人だった。彼女は社交界に顔が効くだけではなく、教育に関する進歩的な考えを持っていた。
初代館長の人選に見るロックフェラーの影響力
美術館の立ち上げに向け、設立委員会のメンバーはそれぞれの役割に邁進した。副会長を引き受けたブリスはMoMAの開館からわずか1年半後の1931年に癌でこの世を去ったが、遺言で美術館に永く影響を与える指示を残している。一方、ほかの2人ほど裕福でなかったサリバンは、モダンアートに関する幅広い知識を活かしてスタッフにアドバイスを与え、クイーンズのアストリア地区にあるイースト・リバー沿いの農場の庭を社交場として提供。クレーンは、幅広い人脈によって資金調達に尽力した。
ハーバード大学で美術を教えていたサックスが任されたのは、館長候補を選ぶという最も重要な任務だった。最終的にサックスが指名したのは、ウェルズリー大学の准教授で、非の打ちどころのない経歴を持つアルフレッド・H・バー・ジュニアだ。バーはプリンストン大学で美術史の学士号と修士号を取得し、ハーバード大学でサックスに師事して博士課程を修了したが、博士号の取得前にハーバードを去り、まずプリンストン大学で、次にウェルズリー大学で教鞭を執っていた。彼がウェルズリー大学で開講していた「近代絵画における伝統と反乱」は、高等教育で初めて行われたモダンアートの授業だとされている。
自分の学生を「ファカルティ(専門分野の構成員)」と呼んでいたバーは、従来の美術史を学ぶだけでなく、日常生活で目にするさまざまなデザインにも注意を払うよう教えている。こうしたアプローチからも分かるように、彼は新しい美術館に新鮮で革新的な視点をもたららせる人物だった。ちなみに、彼を館長候補に選んだのはサックスだが、最終面接を行ったのはロックフェラーで、バーは面接のためメイン州シールハーバーにあったロックフェラーの自宅まで出向いている。このことからも彼女の権限の大きさが垣間見える。
美術館設立における最優先事項が適切なリーダーを探すことだとすれば、その次に重要なのは美術館にふさわしい場所を見つけることだ。そこは、アーティストたちが創り出す世界に足を踏み入れるための特別な場所であるべきだというだけではなく、多くの一般市民を収容でき、設立者が思い描く幅広いプログラムに対応できる物件でなければならない。この難しい仕事を任されたのがクラウンニンシールドとグッドイヤーだった。彼らはいくつかの候補を検討した後、サリバンがかつての教え子を通じて見つけた物件に決定する。それは、5番街730番地のヘックシャー・ビルディング12階にある6部屋だった。
この最初の物件探しにロックフェラーは積極的に関わっていない。彼女の夫はマンハッタンにいくつも不動産を所有していたので、そうしたビルの部屋を借りたり、専用の建物を建設する土地や資金の援助を頼んだりすることができたかもしれないが、彼女はそうしなかった。しかし開館から3年が経ち、最初のスペースが手狭になってくると、彼女は恒久的に使える物件を探すためにより大きな責任を負うことになる。
1932年、MoMAはロックフェラー家が所有する高級アパートに移転した。西53丁目11番地に立つこの建物の賃料は、通常なら年間1万2000ドルのところ、夫であるジョンの計らいで1万ドルまで割引され、最終的には8000ドルにまで引き下げられている。もともと住宅だったこの建物は1937年まで美術館として使用されたが、ジョンが手ごろな価格で土地を売ることをしぶしぶ納得したので、美術館専用のビルを建設するため取り壊された。
MoMAの財務基盤確立に奔走し、大恐慌を乗り切る
1929年10月3日、設立委員会はMoMAの理事会としての初会合を開く。その数日前、サリバンの夫コーネリアスの協力により、同美術館はニューヨーク州教育局から設立認可を得ていた。理事会の最初の仕事は役員の選出で、ブリスが副会長に、クラウンニンシールドが幹事長に、そしてすでに決定していたようにグッドイヤーが会長に任命され、クレーン、サックス、サリバンの3人は創立委員となった。ロックフェラーは財務委員長という大役を引き受け、美術館の恒久的な運営のための堅固な財政基盤構築を監督する立場になる。
アメリカ有数の資産家の妻である彼女は、美術館の設立計画が始まった当初から夫の援助をあてにするのではなく、自立した経営を目指すべきだと明言していた。しかし、ただでさえ達成が困難なその目標は、初代理事たちが公的資金には頼らないと早々に決めたことでさらに難しくなった。ニューヨーク市が所有する土地に立ち、市から多少の支援と出資を受けていたメトロポリタン美術館やブルックリン美術館とは異なり、MoMAは当初から完全な私立であることを選択したのだ。理事会のメンバーは次第に増えていったが、必然的にその一員になるためには、自身や家族がそれなりの資産を持っていることが重要な条件となった。
財務委員長としてロックフェラーが手がけたおそらく最も困難な仕事は、基金もなく、定期収入もなく、政府からの援助もない中、新設された美術館が継続的に頼れる財源を確保することだった。実際、MoMAは設立当初から資金不足に直面する。バーと彼が集めた有能なスタッフに給料を払わなければならず、ヘックシャー・ビルの賃料が毎月発生し、展覧会を開くには作品を借り、輸送し、設営し、返却しなければならない。MoMAはまた、図録を出版し、人々が関心を持って学びを得られるプログラムを組もうとしていたが、理事会の見積りによると最初の2年はこうした活動に最低でも年間10万ドルが必要とされた。この資金を得るため、理事たちは各自が寄付を行うとともに、裕福な友人や仕事仲間から寄付を募っている。彼らの呼びかけには50人以上から寄付の申し出があり、結果としてモダンアート専門の美術館に対する関心の高さが明らかになった。
こうした設立委員会の計画は、MoMAの設立が平常時だったなら理にかなっていると言えただろう。しかし、最初の来館者を迎える10日前に株式市場で大暴落が起き、深刻な経済恐慌がアメリカを襲う。銀行の閉鎖や失業、財政破綻など、竜巻のような影響が社会に渦巻き、富裕層も労働者も大混乱に陥る中、美術館の財務委員長の仕事はいっそう困難さを増した。
しかしMoMAは、ロックフェラーの監督下で持続可能な経営を行うための収入源を複数確保する。その1つは、多様な階層の人々を対象とした会員制度だ。美術館を長期にわたり健全に運営していくためには、幅広い寄付者や後援者の支持が必要だとの認識から導入されたこの制度では、寄付の額に応じて入館料の割引や免除、会員限定の講演会への招待など、さまざまな特典が得られた。もう1つは公開講座や巡回展、出版物の販売など、MoMA独自の知的財産やコンテンツからの収入で、3つ目は年間を通じて行われる寄付の呼びかけと理事自身が毎年行う寄付だった。
ロックフェラーはおそらく、起業家精神と創意工夫によって美術館が自立できるよう力を尽くせば、夫の支持を得られると直感していたのだろう。結果的に彼女の夫の支援は、MoMAが大恐慌による経済的困難を乗り越えるのに極めて重要な役割を果たすことになった。
理事会での対立や資金調達で試された手腕
美術館であると同時にモダンであろうとしたMoMAは、さまざまなジレンマに直面した。そこから生まれる激しい対立を和らげ、難しい状況をうまく切り抜けられるようロックフェラーは周囲に働きかけていたが、これは彼女が水面化で大きな権限と影響力を持っていたことを示唆している。
MoMAに内在する矛盾から生まれた最初の大きな対立は、記念すべき初展覧会の内容をめぐるものだった。創設者の3人と社交界に顔が広い設立委員のクレーンは、新しい表現方法や形式を探求するため写実主義に背を向けたモダニズムの「祖先たち」に焦点を当てるべきだと主張した。彼女たちが特に注目していたのは、その後の絵画や彫刻の潮流を作ったセザンヌ、ゴーギャン、スーラ、ゴッホという4人のヨーロッパ人だった。一方、理事会の男性陣はアルバート・ピンカム・ライダー、ウィンスロー・ホーマー、トマス・エイキンズらのアメリカ人画家を主役にすべきだと考えていたが、最終的には女性たちの案が通った。それを受け、会長のグッドイヤーと館長のバーが100点近い作品を借りるためにヨーロッパやアメリカ各地で交渉に奔走。結果、柿落とし展は大成功を収めている。またしても女性設立者たちの直感が的中したのだ。
1931年3月、3人の創設者の1人であるブリスが亡くなった。このとき、開館間もない美術館は新たなジレンマに直面し、財務委員長であるロックフェラーの力量が試されることになった。ブリスの遺言では、自身のコレクションをMoMAに遺贈するにあたり、同美術館が3年以内にそれを収蔵するスペースを用意し、100万ドルの寄付金獲得を証明することが条件とされていた。彼女が遺したコレクションは19世紀末から20世紀初頭にかけて制作された120点の絵画、版画、素描で、ほとんどはヨーロッパの画家たちの作品だが、ブリスの親友だったアメリカ人画家アーサー・ボーウェン・デービスの一大コレクションも含まれていた。
もし遺贈が実現すれば、これらの作品はMoMAの常設コレクションの礎石として、以降の収集活動の基準となる。それを理解していたロックフェラーは、MoMAが条件を満たせるよう寄付をしてくれそうな人々を探して東奔西走した。最終的にロックフェラーと理事たちは1934年までに60万ドルを集め、ブリスの遺産執行人はこれを十分な額だと判断している。しかし理事会全体が資金集めに尽力したとはいえ、結局その半分はロックフェラー家からの寄付だった。
もう1つの大きなジレンマは、所蔵すべき作品の方針を決めることだった。これは関係者の間で最も紛糾した点の1つで、ロックフェラーも大きな関心を寄せていた。柿落とし展に出品されたような近代の傑作をコレクションに含めるべきか? 時間の経過とともに古くなり、もはや同時代的とは言えなくなった作品は定期的にコレクションから外すべきか? もしMoMAが古い作品を手放すとしたら、どこへ渡すことになるのだろうか?
ロックフェラーには、さらにもう1つ懸念事項があった。1931年にバーに宛てた手紙の中で、「私を最も悩ませている問題は、寄贈者に不満が残る形で作品を処分することはないと納得させながら、同時代的であり続けるにはどうすればよいかということです」と彼女は書いている。この方針をめぐる論争に決着がついたのは、1948年のロックフェラーの死から5年後のことだった。このときMoMAは、新しい作品をコレクションに加えながら古い作品も残すことを決定している。
革新的な館長を支え続けた功績
ロックフェラーが美術館の収集活動に影響力を及ぼしたことも少なからずある。1931年、バーはディエゴ・リベラが1928年に描いた水彩画のスケッチブックを購入するよう彼女を説得した。その代金は、リベラがニューヨークで開かれる自らの展覧会を訪れる旅費の足しになると知っていたロックフェラーは、勧められるまま水彩画を購入し、後にそれらを美術館に寄贈した。
また、彼女自身の趣味もコレクションに反映されている。アメリカのフォークアートをモダニズムの先駆けと捉えていたロックフェラーにとって、それは優先的に収集すべきジャンルだった。フォークアートに関してロックフェラーのアドバイザーだったホルガー・ケーヒルは、バーが長期休暇を取っていた1932年から1933年にかけてMoMAの館長代理を務め、その間に「American Folk Art: The Art of the Common Man in America, 1750–1900(アメリカン・フォークアート:アメリカの民衆による芸術1750-1900)」展(1932)を開催。175点の出品作品の大部分は、ロックフェラーが匿名で貸し出したものだった。
ロックフェラーはコレクションに影響を与える一方で、革新的な館長が美術史的に価値があると判断した作品を入手できるよう尽力。バーが選んだヨーロッパやアメリカの作品を美術館が購入できるよう、若干の資金を提供している。バーの選択に必ずしも同意しない場合でも、彼の裁量に委ねることが重要だとロックフェラーは考えていた。その一例がピカソの作品だ。あるとき、バーは彼女の出資でピカソの版画《ミノトーロマシー》を手に入れたが、その作品が好きではなかったロックフェラーはこんな辛口コメントを残している。「これに貼るラベルには『ロックフェラー夫人の嫌いな版画のための資金で購入』と書いておきましょう」 。
1934年にロックフェラーの夫が妻と子供たちのために信託を設定したことで、彼女の資産は劇的に増加し、美術館のコレクションを支援する能力も高まった。彼女は1936年に総額4500ドルになる2つの作品収集のための基金を、1938年には2万ドルの基金を設立。この基金には、MoMAにおける彼女の指導的役割を承継することが期待されていた息子のネルソンが、追加で1万1500ドルの出資を母の名前で行った。
さらにMoMAのコレクションもロックフェラーから大きな恩恵を受けている。合計で1600点以上の素描、版画、水彩画を寄贈し、現在の素描・版画部門の礎を築いた彼女の所蔵品はアメリカ人画家が中心だったが、ドガ、ゴーギャン、マティス、ピカソ、ルドン、トゥールーズ=ロートレックの作品も含まれている。特に、1946年に彼女が61点のトゥールーズ=ロートレックのリトグラフを寄贈したことで、MoMAはこの人気画家の充実したコレクションを所有する美術館の1つとなった。
しかし、ロックフェラーのMoMAに対する最も永続的な貢献は、先見の明のある初代館長を支え続けたことだろう。「美術館であると同時にモダンであることはできない」というガートルード・スタインの警句をバーは真摯に受け止めていた。MoMAの最初の14年間、彼は美術館のリーダーとして、この言葉が間違っていることを証明しようとするかのように精力的に活動している。
バーは、「モダン」とは絵画や彫刻といった芸術作品の枠を超えた概念だと主張していた。ロックフェラーは常にこの考え方に同意したわけではないが、全体としては彼の指向を受け入れていた。バーにとっての「モダン」の枠組みの中には、大衆の人気を集めるデザインや建築、映画、写真、ダンス、演劇、そして日常生活の中にあるさまざまなオブジェも含まれ、他国の文化の中にもモダニズムの先例を見出していた。しかし、こうした考え方は、理事会の保守的なメンバーにとっては異端の発想で、苛立たしいものでもあった。そんな中でもロックフェラーはバーが存分にリーダーシップを発揮できるよう環境を整え、MoMAが飛躍的な成長を遂げるのに一役買っている。彼女は異なる立場にある人々の意見を汲み取りながら、威厳ある外交官の役割を担い続けたのだ。難しい調整で冷静沈着さを保つのに必要な体力が衰えるまで。(翻訳:野澤朋代)
US版ARTnews編集部注:アン・テムキン、ロミー・シルバー=コーン編『Inventing the Modern: Untold Stories of the Women Who Shaped the Museum of Modern Art(モダンの発明:ニューヨーク近代美術館を作った女性たちの知られざる物語)』より。ニューヨーク近代美術館の許可を得て転載。©2024 The Museum of Modern Art, New York. Reprinted with permission from the Museum of Modern Art, New York. All rights reserved.
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