ナム・ジュン・パイクは、いかにして「ビデオ・アートの父」となったのか。ドキュメンタリー作品が伝える(あるいは伝えない)素顔と数奇な人生
今年1月19日から29日まで開催されたサンダンス国際映画祭で、ナム・ジュン・パイクのドキュメンタリー『Nam June Paik: Moon Is the Oldest TV(月は最古のテレビ)』がプレミア公開された。しかし本作は、「ビデオ・アートの父」と称されるこの現代アーティストの真の素顔に迫ることができたのか?
サンダンス映画祭でプレミア上映されたアマンダ・キム監督の新作ドキュメンタリー『Nam June Paik: Moon Is the Oldest TV(月は最古のテレビ)』は、中間地点で幕を開ける。時代は1950年代で、冒頭の20分のあいだに私たち観客が目にするのは、この作品の主人公であるアーティスト、ナム・ジュン・パイクが穏やかにアーノルト・シェーンベルクのピアノ曲を弾いている姿だ。シェーンベルクは、音楽の世界に新しくモダンなコンセプトを持ち込んだ先駆者とされる、オーストリア生まれの作曲家だ。とはいえこれは、大半の人が持つパイクのイメージとはかけ離れた姿かもしれない。
アートの世界へ誘った実験音楽との出会い
パイクの創り出すビデオ、彫刻、パフォーマンスは、そのどれもが異彩を放ち、近年において極めてまれになったと言わざるを得ない衝動的な創造性にあふれていた。ゆえに、ピアノ演奏シーンから数分後、パイクが弾いていたのとは別のピアノに拳を打ち付け、耳をつんざくような音を立てると、見ている側は何だかほっとしたような気分になる。こちらの方が、ずっとパイクらしく感じられるからだ。
だが、コンサートピアノの演奏からアヴァンギャルドなパフォーマンスアートへの転身は、一夜にして起きたわけではない。本作でナレーターを務めるのは、映画『ミナリ』(2021年)で一躍その名を知られることとなった俳優のスティーヴン・ユァン。ユァンが読み上げるパイクの回想の中で、パイクは子ども時代を過ごした1930年代から40年代にかけて、自身が生まれ育った朝鮮は「発展から取り残された場所」で、シェーンベルクのような、前衛音楽家の作品に触れる機会はほとんどなかった、と述懐する。パイクはその後、1957年に西ドイツに渡り、ジョン・ケージやデイヴィッド・チューダーなどの実験音楽と出会ったことで、音楽、さらにはアート全般が持つ真の可能性を知ることになる。
たいていのドキュメンタリー作家は、おそらくパイクが言う「発展から取り残された場所」だった当時の朝鮮を、映画のオープニングの舞台に選んでいただろう。しかしこの作品でキム監督は、朝鮮半島での子ども時代のエピソードを、大人になり、欧米で奮闘するパイクの姿と交錯させる。
『Moon Is the Oldest TV』は一見、ありきたりなアーティスト・ドキュメンタリーの域を出ないとの印象を与えるかもしれない。マリーナ・アブラモヴィッチやパク・ソボ(朴栖甫)などのインタビューを交えた構成は、ドキュメンタリーの定型とも言える。だが、そこからキム監督はさらに踏み込み、パイクの生涯を、故郷を離れて暮らすアジア人アーティストの体験として、より普遍的に描いてみせる。
「朝鮮半島生まれのディアスポラ」が意味するもの
本作は、朝鮮半島で過ごしたパイクの子ども時代にたびたび回帰する。ニューヨークでの成功、世界で最も人気のあるビデオアーティスト(死後17年を経た今もなお、彼が持ち続けている称号)への飛躍を描きつつ、幼いころの記憶に立ち戻っていく。これはよくあるアーティストのドキュメンタリーではなく、朝鮮半島生まれでアメリカ国籍を持つアーティストに関するドキュメンタリーなのだ。その点を際立たせたことで、キム監督によるこの作品は、数あるパイクに関する考察の中でも、ひと味違った重要性を帯びていると言える。
監督が鋭く指摘するように、祖国を離れ、ディアスポラ(移民)として生きたゆえに、パイクは自分の好きなように自らのアイデンティティを作り替えることができた。「私は貧しい国出身の貧しい男だ。だから人々を楽しませなければならない」と、彼はかつて述べたことがある。だがパイクの甥の白田健に言わせれば、この発言は実態に即していないという。パイクの実家はチェボル(財閥)と呼ばれる家族経営のコングロマリットに属し、裕福な家系だった。1932年に京城(現在のソウル)で生まれたパイクは、何不自由なく育ち、日本による暴力的な植民地支配下にあった当時の朝鮮半島ではほとんどの人が望めないような恵まれた境遇にあった。その後の1950年には、朝鮮戦争の勃発を受けてパイクは家族とともに国外へ脱出。その後は日本に渡り、東京大学で学んだ。
しかし西ドイツでの生活を経て1964年にアメリカに渡るころには、パイクはマルクス主義者を自称し、アート作品の制作を始める。だがこのころのパイクの作品は、当時も今も、とても買い手がつくようなものではなかった。何年も貧しい生活を送ったパイクだったが、その後はアーティストとして飛躍を遂げ、経済的にも安定することができた。
フルクサスでの経験と日本、そして韓国
1962年、日本で暮らしていた時期に、彼は《Zen for Head(頭のための禅)》という作品を制作する。これは自身の頭部、両手、そしてネクタイを墨に浸し、長い紙の上を引きずるというものだ。当時、彼はアート集団のフルクサスに参加していた。安価な日用品をアートの領域に持ち込み、当時は画期的とされた活動を行っていたこのグループの影響を受けて、パイクは自身のアートについても、より広い視野で考えるようになっていた。
《Zen for Head》は、パイクの祖国で当時作られていた作品とは似ても似つかないものだった。欧米の芸術史家の間でも、パイクの作品はニューヨークのアヴァンギャルド・シーンとの関連で語られることが多い。だがパイクは、韓国の影から完全に逃れることはできなかった。韓国の美術史家、イ・ヨンウ(李庸宇)は映画の中でキム監督に対し、《Zen for Head》はあらゆるものを少しずつ混ぜ込んだ韓国料理、ビビンバに似ていると評する。
パイク自身がこのたとえに納得したかどうかは、何とも言えない。彼の作品は、同時期にニューヨークのアートシーンで起きていた動きを踏まえることで、初めてその意味が理解できるという見方が定説とされているだけになおさらだ。当時はアラン・カプローやクレス・オルデンバーグのようなアーティストが、タイヤや安価な雑貨、がらくたなどで構成された、部屋を埋め尽くすような大きさの、常識を覆すインスタレーションを発表していた時期だった。そんな中、パイクはテレビモニターを素材とし、磁石を使ってそこに映される映像を歪め、抽象的なフォルムを作り出した。当時、テレビは新しいテクノロジーで、パイクの作品も新しいタイプのアートだった。そのため当然ながら、ほぼあらゆる人を当惑させた。当時の多くの批評家にとっては、彼の展覧会は「壊れたテレビが山と積み上げられた部屋」以外の何ものでもなかった。
一方通行的な情報伝達メディアとみられているテレビを、「ショート」させるのが、パイクの手法だった。テレビ映像を素材とした自身の作品について、彼はこんな言葉を残している。「私がテクノロジーを使うのは、正当にこれを憎むためだ」。これほど簡潔にして要を得たキャッチフレーズで、自身の作品を的確に説明できる人物は、20世紀のアーティストではほかにジャン=リュック・ゴダールくらいしか思い当たらない。この『Moon is the Oldest TV』も、そうしたパイクの資質を改めて知らしめる作品と言えるだろう。
妻・久保田成子の存在の不在
パイクの発するメッセージは、一部の人にはしっかりと響いた。例えば、クラシック音楽の教育を受けたチェロ奏者、シャーロット・モーマンは、数多くのパイクのパフォーマンスに参加した、勇気ある人物のひとりだ。その中には、彼女がチェロを裸で演奏するものや、乳房の上に小さなテレビモニターをつけて演奏するといったものもあった(同様のパフォーマンスでは、モーマンとパイクが公然わいせつ罪で逮捕される事態も起きている)。もう1人の共鳴者はビデオアーティストの久保田成子で、パイクは1977年に彼女と結婚している。
映画を見ていて、キム監督が久保田の存在をほぼ無視していることを、私はいぶかしく感じた。久保田は献身的にパイクを支え、彼が脳梗塞の発作で倒れたのちに、2000年にニューヨークのグッゲンハイム美術館で大規模な回顧展の開催にこぎつけられたのには、久保田の力が大きかった。だが『Moon Is the Oldest TV』では、久保田は数分しか登場せず、彼女の貢献は伝わってこない。作中では、パイクが階段状の彫刻内に裸で立っている久保田をビデオ撮影している様子を捉えた写真が登場する。彫刻には複数のテレビモニターが仕込まれており、それぞれに久保田の画像が映し出されている。実はこれは、《デュシャンピアナ:階段を降りる裸体》という1976年の久保田の作品で、現在はニューヨーク近代美術館(MoMA)で展示されている。だがキム監督の映画の中では、これがあたかもパイクの作品であるかのように提示されていて、久保田の作品であることは知らされない。二人が残した作品群は、どちらも今では非常に知名度が高いが、二人ともお互いの存在なくしては、今のようなレベルにはとても達していなかったはずだ。
また、キム監督による美術史の解釈にも、疑わしい部分が残る。作中には、ジャンクなテレビ映像が映り、それをパイクが覆そうとしていたとするシークエンスがある。パイクの後期の作品を思わせる、矢継ぎ早にスクリーンに映る編集映像は、キム監督が選んだものだ。しかし、「ルーニー・テューンズ」や「フル・メタル・ジャケット」から集められたその映像は、アジア人への人種差別的なステレオタイプに満ちている。パイクがテレビに反発していたのは間違いない。その傾向が特に顕著になった後期の作品は、色彩豊かでゆがんだ画像で構成されており、公共の電波に乗るようなきれいな映像とはまったく異なっていた。だからと言って「彼の作品がアジア人に対する人種差別と真っ向から対決していた」と主張するのは、映画の中のエビデンスを見る限り、飛躍が過ぎるように思われる。
テレビを介して繋がれる韓国とアメリカ
パイクの作品は、音楽ビデオからポスト・インターネット・アートに至るまで、後世のさまざまなアートの形態を予言するものだったとは、よく言われる話だ。
『Moon Is the Oldest TV』もこうした意見をなぞるように、プリンスやトーキング・ヘッズのミュージックビデオと、パイクのテレビ映像を使った作品を並置してみせる。そのスタイルはあまりに似通っているので、大半の視聴者はキム監督の作戦に見事に引っかかり、パイクがこれらのビデオを監督したのだと思い込んでも無理はないほどだ。
しかし、映像自体の類似点を抜かすと、ミュージックビデオとパイクのビデオアートには、それほど多くの共通点はない。そしてこのドキュメンタリーでは、ポスト・インターネット・アートに関する近年の調査研究と同様に、パイクの作品がなぜこれほどの影響力を持つに至ったのか、その理由に関する具体的な説明に欠けている。ビデオアート界の重要なキュレーターの一人、デヴィッド・ロスはパイクについて、以前にこう証言している。「彼を理解できるようになるまで、その言わんとするところはなかなか耳に入ってこなかった」。キム監督はパイクの作品が実際に言っていることに耳をかたむけるために、もっと努力してしかるべきだったはずだ。
実際にキム監督が耳をかたむけたのはむしろ、欧米に渡った後もパイクにつきまとう、朝鮮半島の伝統とのつながりだ。第二次世界大戦後に成立した韓国とパイクの関係は非常に複雑だった。また、パイクの友人で、自らも朝鮮半島からの移住者であるドロレス・アンは、60年代の時点で韓国国民は「海外に住むコリアンを恐れていた」と証言する。パイクも朝鮮半島を離れてから実に30年以上が過ぎた1984年になるまで、この国に戻ることはなかった。同じ年の新年に、パイクは《グッド・モーニング・ミスター・オーウェル》を発表した。これはニューヨークとパリを衛星生中継で結ぶサテライトアートで、テレビ番組として世界各国で放送された。だがこの番組にチャンネルを合わせた韓国国民の大半は、それまでパイクの作品を見る機会すらなかった人たちだった。
キム監督が映画の中で見せる帰国時のニュース映像では、妻の久保田とともに飛行機から降り立つやいなや、パイクは韓国のファンや記者から大歓迎を受けている。だがそこで彼が見せる笑顔は、不安、憂鬱、長く離れていた故郷に戻れた心からの喜びといった感情が入り混じったもののように見える。この時点で彼の親戚の多くはすでにこの世になく、彼が34年前に家族とともに香港に逃れた時と同様に、朝鮮半島は南北に分断されたままだった。韓国という国自体も、彼がここを去ったときの姿とは様変わりしていた。だがそれでも、この新しくなった韓国で、ショウは続けられなければならなかった。パイクはかつてないほどエネルギッシュなパフォーマーとして、記者会見で堂々とした姿を見せた。それから数十年後、パイクは韓国で最も愛されるアーティストの一人となる。映画の中で、キム監督は初めての帰国時の記者会見の、質疑応答の映像を流す。韓国での自身の作品の評判について尋ねられたパイクはニヤリと笑い、こう答えた。
「ある新聞は『パイク氏の作品は何の印象も残さない』と評しました。少なくとも、写真写りはいいはずなのですが」
from ARTnews