女性の作品は残りにくい? 日本の近世以前に女性画家が少ない理由【見落とされた芸術家たちの美術史 Vol.2】
大和絵の時代から近代に至るまで、なぜ日本史や美術の教科書に登場する巨匠は男性ばかりなのか? その社会的な理由と数少ない女性画家たちの歩みを、ジェンダー美術史を専門とする吉良智子が紐解く連載。第2回は、近世以前に活躍した日本の数少ない女性アーティストたち、そして近世以前特有の女性アーティストが活躍しづらかった理由を聞いた。
──今回は近世以前、つまり江戸時代以前の女性アーティストについて伺いたいと思います。そもそも日本の美術史において、女性による最初の作品は誰によるものなのでしょうか?
近世以前は女性アーティストに関する資料がほとんどなくて作品をみることすら叶わないのですが、平安時代中期には、貴族の男女の恋愛をテーマにした「女絵」というジャンルの絵画が流行しました。女性だけが描いたと限定することはできませんが、『蜻蛉日記』『枕草子』『源氏物語』にも登場し、貴族女性に人気のあったジャンルです。現存の《源氏物語絵巻》は女絵から発展したものであるという説もありますが、女絵の原本が失われてしまっているので詳細は定かでなく、定義も困難です。ひとつ言えるのは、絵を描く女房たちはいても、職業としての絵師という位置づけに女性はいなかったであろうということですね。宮中で職業として絵画を描いていたのは男性でした。
──間違いなく女性による作品である、ということが研究でわかっている最初の絵画作品は誰のものになるのでしょうか?
女性の創作物は残りにくい傾向があるので、存在したとしても現代まで伝わる女性のつくり手が少ないことは確かです。間違いなく最初とは言い切れないのですが、日本美術史家のパトリシア・フィスターが前近代の日本の女性画家をまとめた『近世の女性画家たち』という本では、小野お通という女性が最初に登場します。安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した人で、漫画家の大和和紀さんが描いた『イシュタルの娘』のモデルにもなりました。作品が残っているので存在は確かなのですが、来歴についてははっきりしていることが少ない人物でもあります。
彼女はもともと和歌と書の達人でした。前近代の日本の美術は、書画といって書と絵が一体化していることが特徴として挙げられます。掛軸などが代表的な例ですね。それゆえ書の達人から絵に秀でた人が出てくるのですが、小野お通もその一人でした。これはさきほどの『近世の女性画家たち』で指摘されていますが、戦国時代が終わると世の中が安定してくるので、人間が戦乱に明け暮れていた労力と時間を創作活動に使うことができるようになります。なので、女性も創作活動に携わろうという余裕が出てくるのですよね。
──いきなり安土桃山時代まで飛んでしまうのですね。そもそもその時代まで女性アーティストがいない理由は何なのでしょうか?
まずひとつ挙げられるのは、仏教と儒教の影響です。仏教では、女性は男性に生まれ変わらないと往生できないとする変成男子(へんじょうなんし)説など、女性差別的な考え方が中世くらいから次第に社会に浸透していきます。近世では、儒教において女性は生来的に愚かな存在だとされ、家の存続のための出産がその役割とされていたので、女性に教育を与えても仕方ないと考えられていたんですよね。例えば北条政子の時代は、男性パートナーを失った女性がその権力をそのまま引き継ぐといったことも出来たのですが、室町時代くらいになるとそれも失われていきます。ただ江戸時代になると先ほど言ったように時代が安定してくるので、学びに関しては少し臨機応変になり、寺子屋で女児も勉強できるようになります。また、絵画の受容層が広がって制作や作品の流通も活性化していきました。
──とはいえ、平安時代にはすでに「女手」「女文字」とも呼ばれるかな文字がありますし、清少納言や紫式部といった女性作家もいましたよね。
そうですね。前近代はジェンダー格差よりも階級格差が幅を利かせていた時代で、女性であっても身分が高ければ教養を高めることができたんです。庶民の女性が文字を読めなくとも、貴族に仕える女房クラスであれば文字を知っていました。紫式部や清少納言もそうした女性たちの例ですね。
──教養を身につけてもよい、とされる階級があったなかで女性アーティストが少ない理由はなんでしょう?
純粋に記録や作品がないから検証できない、という理由が挙げられます。さきほど指摘したように女性の作品は残りづらいのです。名前は残っているけれど作品がなかったり、その逆であったりと、確かなことが言えないのですよね。そうしたなかで、記録と作品が両方残っている数少ない女性のひとりが小野お通だということなんです。彼女の場合、書が若い女性たちのお手本になっていたこともあって、作品が残っていました。また、女性であっても、身に着けた教養や能力を生かして高貴な女性に仕えるなどして社会的地位を得ることもできたんです。ただ、職業画家として女性が身を立てるには、父親が絵師であるなど特別な条件がある場合がほとんどですね。基本的に女性は家に仕える存在とみなされていました。
──女性がアーティストとして身を立てづらくなっていくのですね。
はい。ただし、アマチュアとしての女性画家はいます。有名なのは江戸時代中期に活躍した文人画家の池玉瀾ですね。彼女は池大雅という有名な男性文人画家のパートナーでした。これにはいい面も悪い面もあって、お互いに創作活動をしているので学び合い、尊敬しあう関係ではあるんですけれども、批評の場では夫と比較されやすいという欠点があります。
女性アーティストは、評価される際に有名な画家である夫や父親にどれほど近づいているかで見られることが多いんです。お手本としての男性(夫、父)と、それに学ぶ女性(妻、娘)という構図が出来上がっているんですよね。一方で、そうした評価軸においても男性と肩を並べた例はあります。例えば、葛飾北斎の作品のなかには、娘である葛飾応為の手が入っているものもあるんです。
──基本的に作品が残っている人は、身内に大作家がいる人が多いのでしょうか?
そうですね。そうした大作家の周辺にいると、絵を学ぶ環境にふれることができたということだと思います。ただ稀な例として、後水尾天皇の第一皇女である文智女王がいます。彼女は夫と離婚後出家し、信仰心から奉納のための仏画を描いているんです。当時、そうした高貴な身分の女性が仏教に対してアートという形で何らかの貢献をしたいと思った時は、プロの絵師に依頼して奉納するということが一般的だったので、かなり珍しいパターンですね。
ただし、彼女は師匠について習っていたわけではなく、研究対象にもなりにくい人です。そもそも女性アーティストは男性アーティストと同じ条件で修行できていたわけではないので、男性と同じ条件で見ると「マスターピース」から落ちてしまうんですよね。例えば文智女王の作品は、当時の高貴な女性がとる依頼という方法ではなく、自分の努力と時間をかけて絵を描いて奉納することに意味を見出していたという信仰心の表れだったので、そこも考慮する必要がありますね。
──ありがとうございます。次回は幕末から近代にかけて活躍した女性アーティストについて伺えればと思います。
第3回はこちら。
吉良 智子
1974年東京都生まれ。2010年千葉大学大学院社会文化科学研究科修了(博士(文学))。著書に『戦争と女性画家 もうひとつの「近代」美術』(ブリュッケ、2013年)、『女性画家たちの戦争』(平凡社新書、2015年)。『戦争と女性画家』において女性史青山なを賞を受賞(2014年)。専門は近代日本美術史、ジェンダー史。