宮津大輔連載「アート×経営の時代」第7回「妥協のない取り組み姿勢が文化都心を育み、世界を惹きつける磁力を生む」〜森ビル株式会社 代表取締役社長 辻󠄀慎吾

アートコレクターであり、多数の著書もある横浜美術大学教授の宮津大輔氏による連載第7回。最終回となる今回は森美術館のような美術館施設を筆頭に都市の中で文化を育む開発に取り組んできた森ビル株式会社代表取締役社長 辻󠄀慎吾氏に話を伺った。(本文中敬称略)

撮影:西田香織(以下、提供写真以外は同)

ケースに学ぶ「アート×経営の時代」

世には近頃、「アート思考」なるものが流布している。それは、あたかもロジカルな戦略で解決できなかった経営課題が、アートの直観的な「ひらめき」によって解決可能であるといった誤解を招きかねない。

優れた現代アート作品が有する真の魅力と、それを理解・消化し自らの経営戦略に生かすことは、そんな安易なことでも、それほど薄っぺらいものでもない。

連載第2回からは、筆者が仕事などを通じ知遇を得たトップ・マネジメントへのインタビューに基づき、アートが有する唯一無二のパワーを企業経営へと生かしている実例について紹介するものである。

今回はお互いに森美術館の理事として、理事会で毎回お目にかかる森ビル株式会社(以下、森ビル)代表取締役社長 辻󠄀慎吾氏を取り上げたい。

仕立ての良いスーツをまとい、いなせで歯切れのよい語り口

正に「颯爽」という言葉が相応しく応接室に現れた辻󠄀は、番手(織り糸の細さ)が高く、光の反射で微細な織り柄が浮かび上がるネイビーのスーツに、白いシャツ、そして濃藍地に胡粉色小紋を散らしたネクタイを締めていた。多忙な毎日の中、気分転換のために身の回りの品々を楽しんで求めているというだけに、辻󠄀の装いは極めてスタンダードなコーディネイトでありながら、巷に溢れる凡下で教科書的な着こなしとは一線を画するものであった。また、いなせで硬軟取り混ぜた歯切れのよい語り口は、どこか江戸っ子の気風を思わせる(ちなみに辻󠄀は、広島出身である)。

分譲・賃貸収益の増加に加え、ホテル事業の業績回復などによって、森ビルの営業収益は2,855億円、営業利益は628億円に達し、いずれも前年を大きく上回り増収増益となっている(2023年3月期)。また、麻布台ヒルズや虎ノ門ヒルズ ステーションタワーの開業などで、来期は過去最高益の更新が見込まれている。

開業を間近に控える麻布台ヒルズだけで、今や開発区域は約8.1ヘクタール、延床面積に至っては約861,500平方メートルにも及んでいるが、森ビルの歴史はたった2棟のビルからスタートしている。創業者である森泰吉郎(1904~1993年)は、1955年に森ビルの前身である森不動産を設立、虎ノ門交差点近くに西新橋第1と西新橋第2森ビルを建設した。外国のメーカーや通信社などを誘致することで、国際的品質の提供という、現在へ続くオフィス事業の核心的な価値観を見出している。

その後、日本の高度経済成長(1955~1973年)と歩みを合わせるように、同社の賃貸オフィス事業は拡大していく。新橋・虎ノ門エリアに建設された初期のオフィスビルには、すべて数字が冠され、通称「ナンバービル」と呼ばれていた。オフィス需要の増加に応え、森ビルは単独のビルによる「点的開発」から、複数の街区や街路を含めた「面的開発」へとコア・コンピタンス(他社に真似のできない核となる能力)を移行していったのである。

70年代後半から80年代にかけては、豊かなライフスタイルを享受する新しい世代に向けて、従来の流通業や金融業もその事業形態を劇的に変化させていった。「赤いカード」の丸井は、DC(デザイナーズ&キャララクターズ)ブランドのファッション・ビルでブームを牽引し、「感性経営」を旗印とした西武セゾングループ(当時)による渋谷パルコ(1973年開業)が大きな成功を収めていた。

それまでオフィスビルに主軸を置いていた森ビルも、1978年にラフォーレ原宿をオープンし、ファッショントレンド発信地としての地位を確立する。夏・冬のセール自体をイベント化することで、商業施設としての鮮度を継続する手法は、後にヒルズと呼ばれる街区全体の弛まざる活性化施策に継承されていく。

こうした不動産事業における変遷を経ながら、森ビルは1969年に赤坂から六本木にまたがる5.6ヘクタールにも及ぶエリアで、高層オフィスビルやホテル、集合住宅、更にはコンサートホール、放送局などから成る大規模再開発事業「アークヒルズ」に着手する。「職住近接」、「文化の発信」、「都市と自然の共生」などを具現化した「ヒルズ」の原点でありながら、前例のない事業規模と大所帯の再開発組合における利害調整から開発は難航を極め、1986年の竣工までに17年という長い歳月を要している。

辻󠄀が森ビルに入社したのは、アークヒルズの開業を1年後に控え、「六本木ヒルズ」の再開発事業が社内で実質的にスタートした1985年であった。

アークヒルズ秋祭りの様子©森ビル

大学院で都市計画を学び、入社してからは地権者訪問の日々

周りも理系ばかりの家で育った辻󠄀は、数理的思考に加えクリエイティブな要素を併せ持つ建築に魅了され、横浜国立大学工学部で建築を学び、同大大学院工学研究科で都市計画を修めている。当時、都市計画を専攻する学生に開かれていた門戸は、国家公務員か自治体職員、一部のコンサルティング企業あるいはシンクタンクのみであった。しかし、机上ではなく現場でダイナミックに変貌する都市の様相を感じながら、スケールの大きな事業を手掛けたいと考えていた辻󠄀は、大学院修了生を募集していた数少ないデベロッパーである森ビルに就職した。

そこでは、日々地権者との交渉に奔走することとなる。「アカデミックな世界から、いきなり厳しく、ある意味で泥くさい業務への転身となり、最初は面喰らいませんでしたか?」という筆者の質問に対し、辻󠄀は以下のように答えた。

「地権者交渉こそが、開発事業における一丁目一番地です。折角、大学院まで行って都市計画を学んできても、それを経験しなくては、我々の事業における醍醐味を体験できません。それに、地権者交渉担当部署は、昔も今も当社にとっての精鋭部隊ですから」

長い年月を掛けて、ようやく竣工にこぎつけたアークヒルズの前例に倣えば、「当時でも、再開発に反対される方は少なくなかったはずです。けんもほろろな対応も、日常茶飯事ではなかったのでしょうか?」と更に問えば、当時を回想しながらその真意を述べている。

「それは、厳しいお叱りを受けることもありました。今でこそ、六本木ヒルズという成功事例がありますが、当時は再開発がもたらす成果について、目に見えるエビデンスは存在していませんでしたから。信じていただくまでに、相当な時間がかかりました。但し、我々の開発事業は創ってお終いではありません。その後も街は、その価値や重要性を永続的に保ち続けていくわけです。従って、共同事業者である地権者の皆様とは、ずっとお付き合いが続いていきます。少々きついことを言われた位でへこたれているようでは、この仕事は務まりませんよ」

と、涼しい顔で語っている。しかし、六本木ヒルズ竣工までの17年間は反対派との壮絶な折衝の歴史といっても過言ではない。ここでは詳しく触れないが、1995年、ようやく都市計画決定が下りた直後の社内定例会議で、当時社長であった森稔(1934~2012年)が「苦労を、かけたな」と、たった一言絞り出した後、感極まり言葉にならなかったこと※1からも容易に想像がつくであろう。

「諦めるということを考えていないからだと思います。『森ビルさんは失敗しませんね』とよく言われますが、実は数多く失敗しています。しかし、成功したものしか見えていないんです。我々はやめない、諦めない。諦めなければ、全てでき上がってきます」※2

この発言は、成功するまで諦めないという、辻󠄀の愚直なまでにひたむきな取り組み姿勢を表している。そして、そうした気構えが六本木ヒルズを完成させ、虎ノ門や麻布台といった新たな挑戦に活かされていることを痛感させる。真新しいビル街の一角にポツンと取り残された民家や、古い商店を見る度に、地権者全員の合意をもって開発されたヒルズの街々と、それを支えた森ビルマンたちの不撓不屈の精神が思い出されるのである。

展示風景:森美術館開館記念展「ハピネス:アートにみる幸福への鍵 モネ、若冲、そしてジェフ・クーンへ」森美術館(東京)2003-2004年。右/左:森村泰昌《大きな祈り》2003年、中央:チョン・ソヨン《天国への階段》2000年。写真提供:森美術館

「文化都心」六本木ヒルズを、国際的な都市間競争の切り札にする

グローバル化が進み世界の都市間競争が激化する中で、「日本、そして東京の未来を輝かせるには、世界の人々や企業や資本を惹き付ける都市が不可欠だ」という認識が広まりつつある。森ビル先代社長であった森も、そして辻󠄀も、「経済だけで文化がないような都市では、世界の人々を惹き付けることはできない」ことに加え、「文化は都市の魅力や磁力を測るバロメーター」であることを深く理解していた。

「文化都心」というコンセプトを誰にでもわかるようなかたちで視覚化しようと思った。街の象徴が脇にあるようでは、誰も本気にはしないだろう。それに、私は、さほど遠くない将来、文化は経済活動に匹敵する産業になると見ている。少し早すぎたかもしれないが、そのための布石である。※3

と考えていた森は、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan, 1908~1989年)に監修を依頼したアークヒルズのサントリーホールに続き、六本木ヒルズでは森タワー最上部の53階を森美術館にすることを決定した。

一般的な不動産経営であれば、高層ビルの最頂部には集客と収益性の高さを勘案した飲食店を設けるのが定石であろう。しかし、「『文化都心』をコンセプトに掲げるならば、美術館は最も象徴的な場所にもってこなければならない」と辻󠄀は主張する。更には、多彩な展覧会を開催する「森アーツセンターギャラリー」※4をはじめ、街に集う人々が交流する会員制クラブ「六本木ヒルズクラブ」や、社会人向け教育機関である「アカデミーヒルズ」、そして会員制図書館「六本木ヒルズライブラリー」などから成る複合文化施設群を、全て上層階に集めている。

豊かな都市生活には、美術館をはじめとする文化施設が必要不可欠である。六本木ヒルズを「国際的な都市間競争における東京の切り札にする」という強い意思の下、必ずしも採算性が高くはない「天空の美術館」経営に挑んだのである。

「森美術館単体では(経営的に)苦しくても、展望台と組み合わせることによって収益性を担保しています。例え多少の赤字が発生したとしても、全事業規模から考えれば、それを飲み込むことも決して不可能ではありません。何よりも重要なことは、文化都心という戦略が街の価値とプレゼンス向上に大きく貢献している点でしょう。だからといって、文化は儲からないという言い訳には耳を傾けません」

と、辻󠄀は表情を引き締め語った。

少子高齢化による税収の低減は、今や喫緊の社会課題となっている。国家や自治体の予算で運営される公共美術館が大半を占める我が国において、森美術館をはじめとする森ビル文化事業の経営戦略は、貴重な成功事例として重要な解決視点を示しているといえよう。

また、森ビルが共同開発に関わったGINZA SIX(現在、森ビルは共同運営業務を終了※5)では、2街区の間を走る区道・あづま通りを三原通りに付け替えることによって、新しく大きな街区の創出を可能とし、エリア最大の多用途複合施設を実現している。加えて、観世能楽堂を渋谷区・松濤から同施設の地下3階へと誘致し、能楽公演のみならず、地域に開かれた多目的ホールとしても活用可能にしている。更に、災害発生時には、帰宅困難者の一時滞在スペースとしても機能するという※6。こうした取り組みは、充実した街づくりの実現だけでなく、地域活性化への貢献に対して容積率を引き上げる、いわゆる「容積ボーナス」の獲得にもつながっているのである。つまりは、合理的な不動産事業経営の視点から見てもWin-Winであるといえよう。

同様に、施設中央の吹き抜けに展示された草間彌生の巨大な《南瓜》(展示期間:2017年4月20日~2018年3月21日)は、GINZA SIXが旧態依然のビジネス・スタイルから脱し、上質でクリエイティブなサービスや体験を提供する、ユニークな商業施設であることを強く印象づけている。

他方、お台場・パレットタウンでは1万平方メートルの「MORI Building DIGITAL ART MUSEUM EPSON teamLab Borderless(以下、MoDAM)」を、チームラボと共同で運営していた(開館期間:2018年6月21日~2022年8月31日)。同ミュージアムは通常の美術館のおよそ2倍にあたる入館料3,200円(高校生以上、大人)でありながら、翌2019年には、年間来館者数約230万人を記録。単一アート・グループによる世界で最も来館者の多い美術館として、ギネス世界記録に認定されたのである。更には、一時期売上が落ち込んでいたパレットタウン内の商業施設ヴィーナスフォートも、大規模改装とMoDAMの相乗効果によりインバウンドを中心に復調へ転じたという。

これらの事例に鑑みれば、やり方次第では文化でも儲かる可能性が十分に有ることを証明していよう。

文化都心の象徴として果たすべき国際性と、それに相応しい展覧会クオリティを担保しながら経済的にも自立していることの難しさを、森美術館館長・片岡真実は以下のように吐露している。

「『文化都心』の象徴として六本木ヒルズ最上階に在る森美術館には、開館以来20年間に1,870万人が訪れています。『国際性』と『現代性』の意味を問い続け、グローバルな現代美術館コミュニティにもマッピングされてきました。アジア地域からの注目も肌で感じています。プライベート・ミュージアムは、創設者の蒐集したコレクションを公開するモデルが一般的ななか、街づくりの一環として一企業が現代美術館を有するのは世界的にも希有な事例です。東京という都市に居ながらいかに『世界』を意識できるのか、森美術館へ『世界』を惹きつける磁力を発揮する企画は何か、現代美術の質を妥協せずに大衆の心をいかに掴めるのか。この美術館モデルやビジョンを次の20年に継承するためにも、今後さまざまな議論や実際の試みを重ねていきたいと思います」

片岡は森美術館の館長以外にも、国際美術館会議会長(2020~2022年)や国立アートリサーチセンター長(2023年~)といった要職に加え、数々の芸術祭、国際展の芸術監督などを歴任している。今となっては「この人以外には、あり得ない人選」でありながら、スポーツ界では既に常識となっていた外国人トップの登用=デヴィッド・エリオット(David Elliott, 1949年~)の初代館長就任(任期:2001~2006年)や、ジェンダー・ギャップの大きな我が国で先駆的に女性館長を誕生させるなど、一歩先を行く森ビルの人事戦略には目を見張らされる。

麻布台ヒルズ「森ビル デジタルアート ミュージアム:エプソン チームラボボーダレス」©チームラボ

100年続く街づくりを目指して

さて、六本木ヒルズ森タワーは、世界中で数多くの超高層ビルを手掛けてきたコーン・ペダーセン・フォックス建築設計事務所(以下、KPF)が設計し、タワー低層部の商業施設デザインはジョン・ジャーディー(Jon Jerde, 1940~2015年)が担当している。また、六本木ヒルズレジデンスの外観デザインと内装は、テレンス・コンラン卿(Sir Terence Orby Conran, 1931~2020年)率いるコンラン&パートナーズの仕事である。この他にも、森美術館の施設設計におけるリチャード・グラックマン(Richard Gluckman, 1947年~)や、テレビ朝日本社ビルの槇文彦(1928年~)、そして隈研吾(1954年~)ら超一流建築家やデザイナーが六本木ヒルズの街づくりに参加している。それぞれに一家言を持つ彼らとの協働には、様々なコンフリクトが発生したものと予想されよう。しかし、決して妥協することなく取り組み続けたことで、一体感を持った美しい街並みが実現したといえる。

こうした粘り強い姿勢は、行政に対しても貫かれている。ルイーズ・ブルジョワ(Louise Bourgeois, 1911~2010年)による巨大な蜘蛛の彫刻《ママン》(2002年)が設置された「66プラザ」は、今や待ち合わせスポットとして国内外で広く認知されている。実は同広場の下には、幅約34メートルの主要地方道 319 環状三号線本線が通っている。道路法には、「道路上を、建物や構築物で覆ってはならない」という規定が存在している。当初計画では、道路上に六本木駅と森タワーをつなぐブリッジが設けられる予定であった。しかし、安全性と景観に照らして考えれば、ここに広場を作り一体化した方が合理的であると考えた森や辻󠄀、そして担当社員たちは知恵を絞り、「法律だから」と取り合わない担当者のもとに日参した。結果的に「道路上に民間施設を認めることはできないが、公共施設である公園ならばよいだろう。蓋をした道路上の広場は港区の公園として位置づけ、それを民間が一体管理する」ことで、ようやく許可が下りたという※7。それは、竣工のわずか1年半前であった。

また、「日本一美しい街路」実現のため脱ガードレールを目指して、六本木ヒルズのけやき坂通りでは歩道と車道の間に花壇を設けている。行政との話し合いにより、結局は人が跨げない高さの柵を設置せざるを得なかったが、街の景観に溶け込みやすいシルバーの横断防止柵の採用に落ち着いた。但し、こうした美観の維持には、少なくないコストが必要である。六本木ヒルズには、メトロハットの大型スクリーンからエレベーター内の小型液晶ディスプレイまで、大小合わせて250面以上の映像装置が存在しており、敷地内の大型壁面や床面も情報発信ツールとして活用している。つまり、街そのものが、広告媒体やPRメディアとなり、そこで得た広告掲載収入で、街の運営費用を賄っているわけである※8。

こうした「街のメディア化」や「街のブランド力」向上、そして一体感を醸成する「街のコミュニティ」づくりを目指し、「都市を創り、都市を育む」という理念に基づいた、森ビル独自の「タウンマネジメント」活動がアークヒルズや六本木ヒルズを活性化させていったのである。

このような独自施策の考案や、妥協のない取り組み姿勢を推進する原動力について、辻󠄀は以下のように説明している。

「新しいことを生み出すのは、決して簡単ではありません。もしも簡単に答えが見つかったとしたら、それは森ビルらしい答えでも、仕事でもありません。『森ビルらしさ』とは、社員ひとり一人が考えて、考えて、考え抜いた結果、やっと辿り着いた答えの集積ですから」

森ビルらしさとは、一見すると掴みどころがなく抽象的な価値観に思われるが、逆にいえば「考えて、考えて、考え抜いた結果、やっと辿り着く答え」は、それぞれの業務内容や環境、更には社内のポジションなどによっても異なるであろう。自ら解釈するべき余地が大きく、また、眼前の課題に対して強い当事者意識を持って取り組める点からも、非常に優れているといえよう。

「森稔会長の命日である3月8日を『都市について考える日』と名付け、毎年全社員が集まり、我々が受け継ぐべき森ビルらしさを確認する日としています。また、『MORINET』という社内イントラネットを活用して、私が日ごろ感じていることや考えていることを社長コラムという形で月に1回程度発信しています」

このようにして辻󠄀は、「(森)会長存命中は『あえて言わなくても、皆わかっている』という部分もあったが、私は、あえて森ビルらしさというわかり易い言葉にして、ことあるごとに役員・社員に伝えるようにしています」と、同社と他社を分ける基軸であり、原動力でもある大切な価値観を日々伝え続けている。

六本木アートナイト2009©六本木アートナイト実行委員会

未来を見据え、顧客の一歩先を行く

「街の鮮度はオープンの時が一番高く、徐々に落ちていきます。今年20周年を迎える六本木ヒルズも店舗の入れ替えや、そこでしか開催できないお祭りやイベントを開催することで、常に新鮮さを保ちながら、長年かけて丁寧に育ててきました。こうした施策が功を奏して、2022年クリスマスイブの来街者は、オープン時を上回り、過去最高の33万人を記録しています」

と、人々の移ろいやすい気持ちや、東京都心に次々と竣工される新しいビル群及び商業施設との差別化に留意しつつ、辻󠄀は森ビルによる街づくりの一端について語っている。

2009年3月にスタートした「六本木アートナイト」は、生活の中でアートを楽しむという新しいライフスタイルの提案と、東京における街づくりの先駆的なモデル創出を目的に(東日本大震災による2011年、コロナ禍の2020年と2021年を除き)毎年開催されている。様々な商業並びに文化施設が集積する六本木の街全体を舞台に、現代アートからデザイン、音楽、映像、そして各種パフォーマンスまで、多種多様な作品が街なかに点在することで、訪れる人々に非日常的な体験を提供しているのである。

特に六本木ヒルズアリーナに展示される巨大なインスタレーションは、第1回目のヤノベケンジ《ジャイアント・トらやんの大冒険》(2009年)から、草間彌生《愛はとこしえ、未来は私のもの!》(2012年)、チェ・ジョンファ《フルーツ・ツリー》(2019年)、そして2022年村上隆とドラえもんのコラボレーションまで、その巨大なスケールと圧倒的な存在感で観る者を驚かせ続けてきた。また、「六本木アートナイト2023」(会期:2023年5月27日~28日)では、4年振りのオールナイト開催が復活したことで、森美術館は翌日の早朝6時まで開館時間を延長、多くの来街者誘致に寄与していた。

一方のアークヒルズでは、外周の桜並木をライトアップすることで、幻想的な桜のトンネルを現出する春の「さくらまつり」や、夏のビア・ガーデン、そしてカラヤン広場における赤坂氷川神社祭礼のお神輿渡御や盆踊りが楽しめる「アークヒルズ秋祭り」など四季折々の催事が開催されている。

こうした「ハレ」の祭事に対して、日常の「ケ」についても、森ビルらしさは存分に発揮されている。コロナ禍を切っ掛けとしてテレワークが常態化することで、「都心のオフィス需要に陰りが出ているのではないか?」という筆者の質問に対し、辻󠄀は以下のように答えている。

「とんでもない。真逆です。ライフスタイルや働き方は、テクノロジーの進歩と共に大きく変化してきましたが、逆に変わらないものもあります。今回のコロナ危機で逆に明らかになったのは、人と人が出会ってこそ、新しいものが生まれてくるということです。六本木ヒルズには、世界的な先端テクノロジー企業が何社もオフィスを構えていますが、彼らは現在、スペースの増床や改修を考えています」

更に一歩進んで、虎ノ門ヒルズには入居する企業の社員同士が、事業改革や新規事業創出をミッションに交流・協働を目指すインキュベーションセンター「ARCH」が設けられている。また、六本木ヒルズ ヒルズカフェ/スペースでは、毎月1回様々な分野で活躍する複数名のスピーカーが、事業に関する想いや新しいアイデアを発信する「HILLS BREAKFAST」を開催している。2010年9月にスタートした同企画は非常に好評であり、登壇者は延べ650人、参加者は延べ2万人以上にも達している(2023年6月現在)。

これらの取り組みに対して、辻󠄀は「我々にとっての街づくりとは、建物や設備といったハードだけの話ではありません。むしろ、ソフト面で如何に充実させていくかが重要です」と述べている。

麻布台ヒルズ開業へ

2023年秋に開業予定の「麻布台ヒルズ」のコンセプトは、「Modern Urban Village – Green & Wellness」である。世界中の人々が命や健康の大切さを痛感している現在、心身の健康や幸福、そして地球環境の重要性を掲げた考え方は、コロナ禍以前に決定していたとは思えないくらい、これからの時代にマッチしているといえよう。

「Green」については、「麻布台ヒルズ」全体で、6,000平方メートルの中央広場を中心に約2.4ヘクタールの緑地を整備する。高低差のある地形を生かし、ヘザウィック・スタジオ※9が手掛ける低層棟屋上を含む敷地全体を緑化することによって、水と緑がシームレスにつながる憩いの場を創出する。

こうした取り組みが高く評価され、世界最高水準の環境性能認証制度「LEED」※10においてエリア開発を対象とした「ND(Neighborhood Development)」カテゴリーで、最高ランクのプラチナ認証を取得している。加えて、建物を使用する人々の健康や快適性を評価する「WELL(WELL Building Standard)」のカテゴリーでは、既に予備認証を取得(竣工後には、プラチナ認証を取得する見込みである)。しかも、登録面積では世界第1位を達成している。更には、「RE100(Renewable Energy 100%)」※11対応の再生可能エネルギー電力で街全体の利用分を賄うだけでなく、エネルギー効率の向上を図る様々な技術を導入することにより、脱炭素に向けた取り組みを加速・強化していく。

他方、「Wellness」に関しては、慶應義塾大学病院予防医療センターが麻布台ヒルズに拡張移転するのを機に、同センターやヒルズ内の各施設と連携し、都市生活における新たな予防医療やウェルネスサービスの開発並びに社会実装を目指していくという。

これこそ、森ビルが唱える「都心の空と地下を有効活用し、職、住、遊、商、学、憩、文化、交流など多彩な都市機能を立体的且つ重層的に組み込む『Vertical Garden City - 立体緑園都市』」の具現化といっても過言ではなかろう。

同プロジェクトでは文化施設充実に関しても、従前以上に注力している。虎ノ門ヒルズ ステーションタワー(2023年秋・開業予定)の最上部となる45~49階には、「TOKYO NODE」がオープンする。同施設は、ビジネス、アート、テクノロジー、エンターテインメントなどの領域や、リアルとデジタルとの垣根さえも超えた、メインホールと複数のギャラリー・スペースなどから成る全く新しい情報発信拠点である。

また、麻布台ヒルズにおいては、「街全体をミュージアムとする」というコンセプトの下、お台場から移転するチームラボとの協業によるMoDAMをはじめ、延床面積約9,000平方メートルの美術館やギャラリーを中心に、オフィスや住宅、ホテルのロビー、更には広場といった街のあらゆる場所でアートを楽しむことが可能な、芸術・文化が一体となった街づくりを目指している。

麻布台ヒルズ ガーデンプラザ©DBOX for Mori Building Co., Ltd.

更に、「麻布台ヒルズ」の開業に合わせて、森美術館では「森美術館開館20周年記念展 私たちのエコロジー展:地球という惑星を生きるために」(会期:2023年10月18日~2024年3月31日)が、また、麻布台ヒルズの麻布台ヒルズギャラリーでは、キャリア初期から地球環境問題に取り組み続けるオラファー・エリアソン(Olafur Eliasson, 1967年~)の個展が予定されている。

「麻布台ヒルズ、虎ノ門ヒルズが誕生し、六本木ヒルズ、アークヒルズとつながれば、我々の戦略エリアである国際新都心としての可能性と、それに至るシナリオが誰の目にもはっきりと見えてきます。異なるコンセプトを持つ複数のヒルズをビジネス、緑、文化、DXで繋ぐことにより、世界から人、モノ、金、情報、知恵を惹きつける強い磁力を持ったエリアになると考えているからです。それは、森ビルだけではなく、東京にとっても、日本にとっても、非常に意義のあることだと思っています」

と、虎ノ門ヒルズ ステーションタワーと麻布台ヒルズ開業後に、同エリアのヒルズが連坦することで発生する強力な磁力について説明する。

中世ヨーロッパの都市は、君主国家に先んじて自立した共同体として発展していた。貨幣の流通がもたらした経済的繁栄を享受する欲望の場であり、それ故に「安全」が希求された。また、都市構成員の連帯や、存在意義を可視化する「祭り」が非常に重要視されていた。更には、都市賛美と帰属意識の具現化として、道路の舗装・拡張や広場の整備、建物の統一感といった街の「美化」へ結晶していったのである※12。

以上のことから、「安全」、「祭り」、「広場」、そして街の「美化」といった普遍的な価値観が、21世紀の先進的な街であるヒルズには生き続けており、しかもそれが国を超え、上海環球金融中心(中国、2008年竣工)や、JAKARTA MORI TOWER(インドネシア、2022年竣工)へと拡がっていることを強く想起させる。

虎ノ門ヒルズ ステーションタワー「TOKYO NODE」 メインホールイメージ©DBOX for Mori Building Co., Ltd.

辻󠄀慎吾にとってアートとは?

辻󠄀慎吾にとってアートとは何か?という最後の問いに対して、「アートというか文化は、都市生活に欠くべからざるものであり、国際的な都市間競争に勝ち抜くためにも必要不可欠です。そして、その重要性は、今後ますます高まっていくはずです」と、些かもブレることなく力強く語っている。

「では、20周年を迎えた森美術館の歴史で、最も印象に残っている展覧会は何ですか?」という問いには、「開館記念展の『ハピネス:アートにみる幸福への鍵 モネ、若冲、そしてジェフ・クーンズへ』(会期:2003年10月18日~2004年1月18日)です」と答え、その理由を以下のように述べている。

「森美術館が開業する迄、古典美術や印象派については人並みに知っていたつもりでした。しかし、(当時は)『現代アート』といわれても、中々馴染みがなかったわけです。オープニングの時には、人々はどう評価するのだろうか? 果たして、ビジネスとして本当に成り立つのか? と、期待や不安を感じながら、作品よりも来場者の様子ばかり見ていました」

開館当初に辻󠄀が抱えていた不安は杞憂に終わり、森美術館はアジアを代表する現代アート専門の美術館として、今では世界的に高く評価されている。TOKYO NODEや麻布台ヒルズの新たなMoDAMをはじめ、森ビルらしい文化施設、そして新たな街づくりは、私たちにどのような驚きをもたらすのであろうか。今後も同社の動向からは、目が離せそうにない。

※1:森稔『ヒルズ 挑戦する都市』朝日新聞出版、2009年、224ページ
※2:「辻󠄀慎吾・森ビル社長『国際都市として東京にはポテンシャルがある!人口減の中で都市間競
争に勝つ街づくりを』」『財界ONLINE』、2023年6月19日(2023年6月21日閲覧)
※3:前掲『ヒルズ 挑戦する都市』73ページ 
※4:開業当初52階と53階は、一体運営されていたが、後に多様な展覧会や文化的な催事を開
催するため、52階を森アーツセンターギャラリーに、53階を森美術館として分離・運営してい
る。
※5:GINZA SIXは、大丸松坂屋百貨店、住友商事、Lキャタルトンリアルエステート、そして森ビル4社の共同出資会社による「GINZA SIXリテールマネジメント株式会社」が運営業務を行っていたが、森ビルは2020年2月29日で業務を終了。現在は、3社体制で引き続き運営にあたっている。
※7:以下を参考にし、一部を引用している。
前掲『ヒルズ 挑戦する都市』214~216ページ
ヒルズは俺たちが超えていく 森ビル、引き継がれるDNA」『日本経済新聞』2018年6月30日(2023年6月23日閲覧)
※8:以下を参考にし、一部を引用している。
前掲『ヒルズ 挑戦する都市』69~70ページ、84~88ページ
ヒルズは俺たちが超えていく 森ビル、引き継がれるDNA」『日本経済新聞』2018年6月30日(2023年6月23日閲覧)
※9:英国のデザイナーであるトーマス・ヘザウィック(Thomas Heatherwick, 1970年~)によって、
1994年に設立される。代表作は、上海万博の英国パビリオン(2010年)やロンドン五輪・聖
火台(2012年)など。「ヘザウィック・スタジオ展:共感する建築」(会期:2023年3月17日~
6月4日)が、六本木ヒルズ展望台 東京シティビューで開催されている。
※10:環境に配慮した建物を評価する国際的な認証制度で、米国の非営利団体USGBC(U.S. 
Green Building Council)が開発・運用し、GBCI(Green Business Certification Inc.)が第三
者機関として認証審査を行っている。
※11:事業活動で消費するエネルギーを、100パーセント再生可能エネルギーで調達することを目
指す国際的なイニシアチブである。
※12:以下を参考にし、一部を引用している。
河原温、池上俊一『都市から見るヨーロッパ史』放送大学教育振興会、2021年

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