ローザ・ボヌールと結論──リンダ・ノックリン著「なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか」Vol.4

フェミニスト美術史家として世界的に知られるリンダ・ノックリン。2017年10月29日に86歳で死去した彼女が、1971年にUS版ARTnewsで発表した論文「なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか」の最終回(Vol.4)は、女性という不利な立場で芸術家ローザ・ボヌールを取り上げる。女性という不利な立場であるにも関わらず、ボヌールが芸術家として成功した背景には何があったのか。

リンダ・ノックリン。2018年1月の『Art in America』による追悼記事より。2000年撮影。Photo Annie Appel

ここで、歴史上最も大きな成功を収めた女性画家の1人、ローザ・ボヌール(1822-1899)について詳しく見てみよう。好みの移り変わり、そして主題の変化の乏しさによって、彼女の作品の評価は全盛期に比べ下がっている。とはいえ、19世紀の芸術や、時代時代の好みの変遷に関心がある者なら今でも誰もが知る、目覚ましい業績を残した画家だ。その名声の大きさも手伝って、ローザ・ボヌールという1人の女性画家の中に、女性であり画家であることの内的、そして外的な矛盾や葛藤が鮮明に浮かび上がってくる。

ローザ・ボヌールの成功は、制度そして制度の変化が、芸術分野で女性が成功するための条件、たとえ十分ではないにせよ必要な条件だったことを立証している。女性という不利な立場で芸術家になろうと決めたボヌールは、良い時代に生まれてきたと言えるかもしれない。彼女が画家として世に出た19世紀半ばには、伝統的な歴史画の人気はすっかり衰えていた。その代わりに、それほど仰々しくもなく、決まりごとも少ない、風俗画や風景画、静物画などのジャンルが好まれるようになっていた。芸術を支える社会的、制度的な仕組みも大きな変換点を迎え、ブルジョワジーの台頭と教養ある貴族の没落により、神話や宗教的場面を扱った壮大な絵ではなく、日常的なモチーフを描いた小品の需要が高まっていたのだ。

これについて、美術史家のハリソン・C・ホワイトとシンシア・A・ホワイトは次のように書いている。「ますます量産されるようになった絵画の納品先として画家が当てにできたのは、300もの地方美術館や政府による公的な注文よりも、ブルジョア階級の家庭だった。歴史画が中産階級の応接間に馴染むことはなかったし、これからもないだろう。そこに相応しいのは、風俗画、風景画、静物画といった『格下』の作品だ」(原注・出典17)。

ローザ・ボヌール《馬の市》(1852-55年頃)。ボヌールは、コンスタン・トロワイヨンと同様、動物を叙事詩的で「英雄的」に表現した絵で大きな人気を博した。

19世紀半ばのフランスでは17世紀のオランダのように、不安定な市場で生き残ろうと芸術家たちは特定の主題を専門とした画業を展開する傾向があった。ホワイトらが指摘するように、動物画は非常に人気が高く、ローザ・ボヌールはこのジャンルで最も優れた画家として成功し、バルビゾン派のコンスタン・トロワイヨンに次ぐ人気を博していた。ちなみに、牛の絵を描くのに追われていたトロワイヨンは1人では注文を捌ききれず、背景専門のアシスタントを雇っていた時期もあった。

ローザ・ボヌールが注目されるようになった時期は、バルビゾン派の風景画家たちの台頭と重なる。バルビゾン派を後押ししていたやり手の画商デュラン=リュエルは、後に印象派を支援した。ホワイトたちの言葉を借りれば、デュラン=リュエルは、当時拡大していた中産階級向けの「装飾動産市場」をいち早く開拓した画商だったのだ。ローザ・ボヌールの自然主義的なスタイル、そして動物の個性だけでなく「魂」をもとらえる画力は、当時のブルジョワ趣味と一致した。同じような資質を備えた動物画家のエドウィン・ランドシーアも、イギリスで成功を収めている。ただし彼の作品は、ボヌールに比べると感傷的でわざとらしい哀感が漂っている。

父の影響と「フリルブラウス症候群」

貧しい絵の教師の娘として生まれたローザ・ボヌールは、早くから芸術に興味を示していた。それと同時に、我が道をいく性格と自由奔放な振る舞いから、周囲からはおてんば娘と呼ばれていた。彼女自身も後に、ごく幼い頃から男性的な反抗心が芽生えていたと振り返っている。そうは言っても、19世紀前半ばには、執着心、頑固さ、活発さなどをほんの少しでも見せた女の子は男まさりと受け止められたのではないだろうか。ローザ・ボヌールの父親に対する態度には矛盾したところがある。生涯の仕事を見つける上で父親の影響が大きかったことは認めつつも、大好きだった母親を彼が大事にしていなかったことに腹を立てていたことは間違いない。また、彼女は回想の中で、父親が傾倒していた奇妙な社会的理想主義を、愛情を込めて揶揄している。

彼女の父レイモン・ボヌールは、1820年代にバルテルミ=プロスペル・アンファンタンがパリ北西部のメニルモンタンに設立したサン=シモン主義(*4)の共同体の一員だった。晩年のローザ・ボヌールは、共同体のメンバーの風変わりな行動を揶揄したり、父がこの団体に入れ込んだことが苦労の多かった母にさらなる負担をかけたと批判したりしていた。とはいえ、サン=シモン主義が理想として掲げていた男女平等の考え方が、幼少期の彼女に強い印象を残し、その後の行動に影響を与えたことは間違いない。サン=シモン主義者たちは婚姻制度を否定し、女性メンバーたちは自由の象徴であるズボンを履き、ル・ペール(教父)と呼ばれていた共同体のリーダー、アンファンタンは自分と共に指導者の役割を担う女性メシアを見つけるために奔走していた。


*4 フランスのユートピア社会主義者サン=シモンの影響を受けた政治的・宗教的思想。

彼女はあるインタビューで次のように語っている。

「女性であることをなぜ誇りに思ってはいけないのでしょうか。人間性の熱心な使徒だった私の父は、女性の使命は人類を高みへと引き上げることだ、女性は来るべき世紀の救世主だと、何度も私に言い聞かせていました。私が女性のために遠大で高潔な志を抱くようになったのは、父の信じていた教義のおかげです。私は誇りを持って自分が女性であると断言できますし、女性の独立を死ぬまで支持します」(原注・出典18)

ローザ・ボヌールの父親は、まだほんの子どもだった娘に、当時女性画家として最もよく知られていたヴィジェ=ルブラン夫人を超えるという野心を植え付け、彼女にあらゆる形の支援と励ましを与えた。それと同時に、文句も言わず働き、過労と貧困のため次第に衰えていった母親の姿は、彼女が自分で自分の運命を決定し、夫や子どもたちの奴隷には絶対になるまいと決意する上で、より現実的な影響力を及ぼしたのかもしれない。現代のフェミニストの視点から見て特に興味深いのは、ボヌールが悪びれることなく力強い男性的な反骨心を見せながら、同時に自己矛盾とも言えるわかりやすい女性らしさを臆面もなく肯定していたことだ。

すぐにフロイト的な深読みをされる心配がなかった時代の率直さと言うべきか、ボヌールは伝記作家に対し、自由を失うのが怖かったので結婚はしたくなかったと説明している。そして、あまりにも多くの若い女性が、いけにえの羊のように自らを祭壇に差し出していると嘆いてみせている。しかし、自分では結婚を拒否し、結婚をすると女性は必然的に自我を失うと示唆しておきながら、彼女はサン=シモン主義者たちとは違い、結婚は「社会の運営に不可欠な秘跡」だと考えていた。

ボヌールは結婚の申し出を全て断り、同じ女性芸術家のナタリー・ミカと一緒に暮らしていた。おそらくプラトニックな間柄だった2人は、良好な関係を生涯にわたって維持したようだ。ミカは伴侶としてボヌールが必要としていた温もりを与えてくれたのだろう。このやさしい友人との関係は、結婚のように仕事への徹底したコミットメントを犠牲にさせるものではなかったらしい。いずれにせよ、確実な避妊法のない時代に子育てを免れたい女性にとって、こうした関係の利点は明白だっただろう。

当時の伝統的な女性の役割を堂々と拒否していたローザ・ボヌールは、一方でベティ・フリーダンが言うところの「フリルブラウス症候群」に罹っていた。これは、今日でも成功した女性の精神科医や大学教授に見られる症状で、極度にフェミニンな服を身につけたり、お菓子作りの腕前を自慢したりするような、当たり障りのない形での女らしさの強調のことを言う(原注・出典19)。ボヌールは早くから髪を短く切り、ジョルジュ・サンドに倣って普段から男装していた(ボヌールはサンドのロマン主義的な田園小説に影響を受けていた)。だがボヌールは、男装はあくまでも職業上の必要性からだと伝記作家に語っており、自分でも心からそう信じていたようだ。彼女は若い頃に少年のような格好でパリを駆け回っていたという噂を憤然と否定し、16歳の時に撮影したダゲレオタイプを伝記作家に誇らしげに渡した。その肖像写真の中の彼女は、ごく普通の女性らしい服装をしていて、短髪だけが目を引く。それに関して彼女は、「巻き髪の面倒を見てくれる人がいなくなってしまったので」と、母の死を言い訳にしている(原注・出典20)。

さらに男装に関して言えば、ズボンは解放のシンボルではないのかという指摘を彼女はすぐに否定している。

「私は、男性になりすますために本来の服装を拒む女性を強く非難します。私だって、もし女性に相応しい服はズボンだと思ったなら、スカートを完全に捨てていたでしょう。私は、仲間の女性画家たちに普段から男装をするように勧めたこともありません。私がそうしたな服装をしているのは、多くの女性がしてきたような人々の興味を引く目的ではなく、単に仕事をしやすくするためです。ある時期の私は、1日の大半を屠殺場で過ごしていました。血溜まりの中にいるのは、よほど絵の仕事を愛していなければ難しいことです。私はまた、馬に魅了されていました。馬を研究するのに競り市ほど適した場所はないでしょう。そうした場所で女性の服を着ていては、全く身動きがとれないと悟るしかありませんでした。だから、警察に申請して男装をする許可を取ったのです(原注・出典21)。でも、私の着ている服は仕事着であり、それ以外の何物でもありません。何も知らない人たちの言うことは気にしませんし、ナタリーも私と同じように彼らを笑っています。彼女は私が男装していてもまったく気にしませんが、もしあなたが少しでも気を悪くされたのでしたら、私はすぐにスカートに着替えますよ。クローゼットを開けさえすれば、そこには女性らしい服がいくつも並んでいますから」(原注・出典22)。

一方で、ローザ・ボヌールは、このような気持ちも吐露している。

「ズボンには随分助けられてきました。スカートを引きずっていては、絶対にできない仕事があります。しきたりに敢えて背いた自分自身を何度褒めたことでしょう」。だが、彼女はまたしても、自分の正直な告白を、見せかけの「女らしさ」で包まないといけないと感じている。「服装はともかくとして、イブの娘で私ほど優雅さを好む者はいないでしょう。無愛想で社交下手なところがあるかもしれませんが、私は完全に女性らしい心の持ち主なのです」(原注・出典23)

動物の解剖学的特徴を知り尽くすため研究に励み、快適さとはかけ離れた環境で熱心に牛や馬をスケッチし、長いキャリアを通じて精力的に絵を描いて顧客を惹きつけてきた彼女は、剛健で揺るぎない、紛れもなく男性的なスタイルを持っていた。パリのサロンで1等を獲得し、レジオンドヌール勲章のオフィシエ章、スペインのイザベラ・カトリック勲章のコマンドール章、ベルギーのレオポルド勲章などを授与され、ヴィクトリア女王の友人でもあった彼女は世界的に知られた画家だ。そんな彼女がどんな理由であれ、晩年になって自分の男装や行動を世間に向けて正当化しなければならないと感じたこと、また、自分の良心を慰めるために、ズボンを履いたほかの女性たちを慎みがないと非難しなければならないと感じたことは、哀れに思える。父親の支援を受け、型破りな行動を取り、世俗的な成功を収めた彼女でさえ、「女性らしい」女性でないことに後ろめたさを覚えていたのだ。

女性芸術家に突きつけられるこのような困難は、今日も変わらず、アーティストであることの難しさに拍車をかけている。たとえば、現代の著名アーティスト、ルイーズ・ネヴェルソンの場合もそうだ。彼女の「女性らしくない」仕事への執念と、見るからに「女性らしい」つけまつげの対比、そして創作しなければ生きていけないと確信しながら、彼女いわく「世間が結婚すべきだと言っているから」17歳で結婚したこと(原注・出典24)を考えてみてほしい。

この2人の傑出したアーティストの場合──そして、《馬の市》への好みは分かれるかもしれないが、ローザ・ボヌールの業績は賞賛すべきものだ──ですら、両義的なナルシシズムと内面化された罪悪感を伴う「女らしさの神話」が、確固たる自信をわずかに揺るがせ、蝕んでいる。道徳的にも美的にも、絶対的な確信と自己決定の感覚を持つことが、偉大で最も革新的な作品を生み出すのに欠かせない要素であるにもかかわらず。

結論

形だけの平等ではなく、真の平等を求める女性を牽制するために持ち出されるお約束の問いの1つについて、ここまで考えてきた。その検証を、「なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか?」という問いの根底にある間違った知的基盤を検証し、また、世間で「問題」だとされているさまざまな事柄、特に女性に関する「問題」の定式化の妥当性を問い直し、さらに美術史という学問分野自体の限界を探るなど、さまざまな角度から行なった。この論考では、芸術分野で成果が上げられるか否かは、個人的資質や前提条件などの私的な要因よりも、制度的で公的な要因が大きく影響することを強調してきた。そうすることで、この分野の他の領域の分析にも適用できる、新たなパラダイムを提供できたのではないだろうか。

女性たちが直面していたありとあらゆる欠乏や、彼女たちが置かれていた不利な状況を説明するために、ヌードモデルが使えなかったというほんの一例をある程度詳細に検討した。それによって、能力や天賦の才と言われるものにどれほど恵まれようと、女性が男性と同じような芸術的卓越性、そして成功を収めることは制度的に不可能であることを示した。偉大とは言えないまでも、成功を収めた女性芸術家の小さな集団が歴史上存在したとしても、この事実を否定することはできない。それはマイノリティの中に少数のスーパースターやトークン(*5)的成功者が存在するのと同じことだ。偉大な作品はまれで、それを作るのは少なく見積もっても困難な仕事だ。しかし、自信喪失や罪悪感という内なる悪魔や、嘲笑や上から目線の激励という外部の怪物といった、芸術作品そのものの質とは特に関係がない葛藤を抱えながら、それを成し遂げようとする者にとってはさらに希少で、より困難なものとなる。


*5 多様性を主張できるようマジョリティの中にお飾り的に加えられたマイノリティ。

重要なのは、女性たちが言い訳をしたり、凡庸さをそれ以上のものに見せようとしたりすることなく、自分たちの歴史と現況をありのままに直視することだ。不利な立場は確かに言い訳になるかもしれないが、それは知的な態度ではない。むしろ、女性は偉大さの領域では劣勢で、イデオロギーの領域ではアウトサイダーである状況を利点として活かしながら、さまざまな制度や知的議論の脆弱性を明らかにできる。そうやって誤った意識を破壊しながら、新しい制度の創造に携わることができる。そうした新しい制度の中では、透徹した思想と真の偉大さを志すことは、男女を問わず誰にでも可能だ。必要なリスクを取り、未知に向かって跳躍する勇気さえあれば。(翻訳:野澤朋代)

初出:US版ARTnews 1971年1月号22頁

原注・出典
17.Harrison C. WhiteとCynthia A. White、前掲書91頁

18.Anna Klumpke『Rosa Bonheur: Sa Vie, son oeuvre』(Paris, 1908)311頁

19.Betty Friedan『The Feminine Mystique(女らしさの神話)』(New York, 1963)158頁 (日本語版『新しい女性の創造』大和書房)

20.Anna Klumpke、前掲書166頁

21.今日の多くの都市と同様に、当時のパリには異性装を禁止する法律があった。

22.Anna Klumpke、前掲書、308-309頁

23.同上、310-311頁

24.Elizabeth Fisher『The Woman as Artist, Louise Nevelson』、Aphra Vol.1 Issue 3(1970年春号)32頁より引用

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